夕輝とスタートラインに立つ
歴史というのは、
単なる過去の覚え書きほどの価値しかない。

タイムマシンがこの世に存在しない以上、
過去を確認に行くことはできない。

過去を知る方法、すなわち、歴史を知る方法は
口伝によるもの(とそれに類するもの)となる。

当然、自分に有利な情報は率先して未来へと紡ぐが、
自分に不利なことや、言いたくないことは
闇に葬られる。

よって、各地、あるいは各人によって
伝えられる歴史は異なる。

"どれが正しいが事実か"という議論には
実質的な意味は伴わない。
 
 
 
戦争はなぜ存在するか考えたことはあるだろうか。

戦争はよくないだとかそういう議論より
前段階として戦争を知る必要があると私は思う。

よくないものだと決めつけて、内容を伝えなければ、
いずれ、戦争は新しい名前を得て、
この世に生まれるだろう。
 
 
歴史には学問以上の意味は無い。

過去は大事である。が、
それは個々人の過去であり、
集団の過去は確定させるには曖昧すぎる。
 
 
 
 
もし、本当の意味で"歴史"を考えるのなら、
それは学問であり、政治の道具では無いことを理解すべきだ。
 
 
 
靖国問題については、日本の国籍を持たない人間に
とやかく言われる筋合いは無い。

日本の故人への考え方は
仏教神道各種入り交じった
独特なものがあり、
それは他者に文句言われるものではない。
(故人を悪く言わない、という文化は日本独特のものである)

"政教分離"という原則があるのがやっかいではあるが、
これをとやかく言うのなら、
これを掲げて達成されてない国など腐るほどある。
※修正。政教分離を掲げているのは日本だけ。
 
 
 
アジアというのは、
日本・韓国・北朝鮮・中国の四カ国を指す言葉では無い。
 
誤った意味でアジアという言葉を使うのは、
他のアジア諸国に申し訳が立たないと思うのは私だけか。

靖国問題が問題となるのは、
靖国神社というカタチが存在するからである。
カタチがもし、もっと曖昧であれば
問題として残ってはいないだろう。
見えないものを人間は忘れてしまう。
忘れてしまうからカタチに残そうとするのだ。
では、歴史はカタチに残ったものなのか。
見えないものだから、皆自分に有利なものを
そうぞうしてしまうのである。

 
 
 
 
大きく話が逸れたが、
歴史というのはそんなものに過ぎない。

所詮、有史という期間はそれを"歴史"という言葉で表すには短い。
そして、人間の記憶と意識で紡ぐには長すぎる。

一昨日の晩ご飯でさえ定かでない人間に
二十年前の記憶などあやふやでしかない。
 
 
だから、人間は、
歴史という言葉と概念と存在を利己的に取り扱おうとするのだ。

結果として、歴史はさらに歪曲し、つぎはぎだらけとなって
未来にまた同じ争いを生じさせる。
 
 
 
まさに、歴史は繰り返すのである。
 
 

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