夕輝とアリスの永い月夜の始まり
2005年10月22日 ShortStory【アリスの永い月夜の始まり−東方二次SS】
見上げると高い空に見事な満月が輝いていた。いつもは闇が支配している魔法使い達の森は重なり合う木々の合間から仄かに光が射し込み、幻想的な雰囲気さえ醸し出していた。一人の魔法使いが、宙を舞う人形と共に木々の根に足を捕られぬよう注意しながら、先を急いでいた。
七色の名を冠するこの魔法使いは決して力無き者では無かったが、今はただ急ぐことしかできなかった。彼女には時を完全に止める術は無かった。少しでも時の進みを遅らせ、そして自分が急ぐしかなかった。
月の光を浴びてなお薄暗い森を、彼女は一冊の魔導書を握りしめ、ひたすら進む。ほどなくして、一軒の家を見つけた。
ドンドンドン
彼女は一軒家に着くやいなや、真夜中であることを忘れたように激しくドアを叩いた。ドアを壊さんとする勢いにお付きの上海人形が驚く。
「なんだよ、こんな真夜中に、今寝ようとしたところだぜまったく」
不機嫌な声と共に一軒家の主人が姿を見せた。寝ようとしていた雰囲気など微塵も感じさせぬ黒と白の正装と編み上げた髪、あと帽子と箒があれば今にも飛び立てそうであった。どう考えても今から就寝するスタイルでは無かったが、人形遣いにはそんな些細なことはどうでもよかった。
「で、こんな真夜中に何のようだ?」
「貴方の力を貸して欲しいの」
彼女は息を切らしながら声を絞り出した。頭の中を嫌な予感が過ぎる。事態が事態とはいえ、このような夜更けに押し掛けられて歓ぶ人間など聞いたことも無い。彼女は相手の返答を聞く前に、言葉をやや荒げながらも続ける。
「対価は用意したわ」
そう言いながら、彼女は先ほどの魔導書を両手で握りしめ差し出した。秘蔵の一冊だ。ヴワル魔法図書館にも、この本は置いてないはずだった。
魔導書を差し出す手が震えているのが彼女自身にもわかった。自分より劣るだろう人間に助力を乞うのが悔しいのではない。自分の力が此度の変異に及ばないだろう事が悔しいのではない。月夜の異変とは全く関係のない事が、彼女の手を震えさせる。そこには、大いなる魔力を持った孤高の魔法使いではなく水に濡れた小鳥のような彼女が居た。
「・・・この時が止まりそうな夜を元に戻すのを手伝わせるのか?」
「いえ、それは私の力。手伝って欲しいのは月の事よ」
「ふん、何にせよ間に合って良かったな。今まさに飛び出そうとしていたところだ」
そういうと、魔理沙は帽子を手に取った。
アリスの顔が少しほころぶ。手の震えはもう止まった。
「・・・でも、どうして私に頼んだんだ?」
目の前の黒い帽子を被った魔法使いが問うた。
相変わらずだ。どうせわかってるのに、そんなにそれを私の口から言わせたいのだろうか。人形遣いは思案を巡らし、そして観念し口を開こうとした。しかし、それより刹那の時間だけ早く魔理沙が言葉を続ける。
「まあ、友達で大事なのは量より質さ」
そういうと、魔理沙は箒に跨り、アリスの横を綺羅星の如く駆け抜ける。あっという間に森の最も高い木より上の黒い空に飛び出した。アリスは慌てて、上海人形を引き掴んで跡を追って宙へ飛び出した。
「ま、待ちなさい!行き先わかってないんでしょ!」
・・・本当に嫌なヤツ。そんなこと自分で言うヤツなんか初めてだわ。
でも、何か胸が熱くなる。前が見えにくくなる。久しぶりの気持ち。人形遣いは悪い気はしなかった。ただ、目から頬に筋が付かないように、そっと目頭を拭う。次の瞬間に上海人形と目が合ったが何事もなかったように装って、アリスは夜空へ飛び出した。
見上げると高い空に見事な満月が輝いていた。いつもは闇が支配している魔法使い達の森は重なり合う木々の合間から仄かに光が射し込み、幻想的な雰囲気さえ醸し出していた。一人の魔法使いが、宙を舞う人形と共に木々の根に足を捕られぬよう注意しながら、先を急いでいた。
七色の名を冠するこの魔法使いは決して力無き者では無かったが、今はただ急ぐことしかできなかった。彼女には時を完全に止める術は無かった。少しでも時の進みを遅らせ、そして自分が急ぐしかなかった。
月の光を浴びてなお薄暗い森を、彼女は一冊の魔導書を握りしめ、ひたすら進む。ほどなくして、一軒の家を見つけた。
ドンドンドン
彼女は一軒家に着くやいなや、真夜中であることを忘れたように激しくドアを叩いた。ドアを壊さんとする勢いにお付きの上海人形が驚く。
「なんだよ、こんな真夜中に、今寝ようとしたところだぜまったく」
不機嫌な声と共に一軒家の主人が姿を見せた。寝ようとしていた雰囲気など微塵も感じさせぬ黒と白の正装と編み上げた髪、あと帽子と箒があれば今にも飛び立てそうであった。どう考えても今から就寝するスタイルでは無かったが、人形遣いにはそんな些細なことはどうでもよかった。
「で、こんな真夜中に何のようだ?」
「貴方の力を貸して欲しいの」
彼女は息を切らしながら声を絞り出した。頭の中を嫌な予感が過ぎる。事態が事態とはいえ、このような夜更けに押し掛けられて歓ぶ人間など聞いたことも無い。彼女は相手の返答を聞く前に、言葉をやや荒げながらも続ける。
「対価は用意したわ」
そう言いながら、彼女は先ほどの魔導書を両手で握りしめ差し出した。秘蔵の一冊だ。ヴワル魔法図書館にも、この本は置いてないはずだった。
魔導書を差し出す手が震えているのが彼女自身にもわかった。自分より劣るだろう人間に助力を乞うのが悔しいのではない。自分の力が此度の変異に及ばないだろう事が悔しいのではない。月夜の異変とは全く関係のない事が、彼女の手を震えさせる。そこには、大いなる魔力を持った孤高の魔法使いではなく水に濡れた小鳥のような彼女が居た。
「・・・この時が止まりそうな夜を元に戻すのを手伝わせるのか?」
「いえ、それは私の力。手伝って欲しいのは月の事よ」
「ふん、何にせよ間に合って良かったな。今まさに飛び出そうとしていたところだ」
そういうと、魔理沙は帽子を手に取った。
アリスの顔が少しほころぶ。手の震えはもう止まった。
「・・・でも、どうして私に頼んだんだ?」
目の前の黒い帽子を被った魔法使いが問うた。
相変わらずだ。どうせわかってるのに、そんなにそれを私の口から言わせたいのだろうか。人形遣いは思案を巡らし、そして観念し口を開こうとした。しかし、それより刹那の時間だけ早く魔理沙が言葉を続ける。
「まあ、友達で大事なのは量より質さ」
そういうと、魔理沙は箒に跨り、アリスの横を綺羅星の如く駆け抜ける。あっという間に森の最も高い木より上の黒い空に飛び出した。アリスは慌てて、上海人形を引き掴んで跡を追って宙へ飛び出した。
「ま、待ちなさい!行き先わかってないんでしょ!」
・・・本当に嫌なヤツ。そんなこと自分で言うヤツなんか初めてだわ。
でも、何か胸が熱くなる。前が見えにくくなる。久しぶりの気持ち。人形遣いは悪い気はしなかった。ただ、目から頬に筋が付かないように、そっと目頭を拭う。次の瞬間に上海人形と目が合ったが何事もなかったように装って、アリスは夜空へ飛び出した。
夕輝と星霜の鼓動
2005年8月9日 ShortStory【星霜の鼓動】
そこに、大樹がそびえ立っていた。
緑に萌える枝葉が風に靡き、静かな囁きを創り出している。茶色に色付いた幹は長い年月を刻んでいる。樹齢は数百年、いや千年はくだらないかもしれない。少なくとも、その前で佇む二人には、専門の知識が無いためよくわからない。しかし、この何もない、瓦礫と怨嗟で満ちあふれた荒野に鮮やかな緑の塔は似合わない。
青い長髪の女が、大樹の先端を見上げている。
「・・・私、初めて見たよ」
隣の金髪の少女が、幹に近づきながら答える。
「・・・人間以外にも顕現存在があったとはねぇ。どうでもいいけど、口開けて上向いてるとあなた馬鹿みたいに見えるわよ」
言われて、女は慌てて口を閉じた。それほどに、この大樹は彼女たちを驚かせたのだ。
金髪の少女は、また一歩幹に近づくと、彼女の両の腕を伸ばしても、幹を囲むことが出来ぬ大樹に抱きつくように、手を伸ばした。ひんやりとした感触が、蒸し暑い太陽の下で気持ちよかった。そこにあるはずのない感触があるはずのない両の手を通して、彼女に流れ込んだ。大樹の脈動さえ感じ取れる。
また風が瞬いて、大樹がざわめく。そのざわめきは不安に彩られた悲鳴のように、風に大地に彼女の心に溶けていく。
「・・・わかったわ」
金髪の少女が、剣の手入れを始めていた女剣士の元に戻ってきた。女剣士は、先ほどまで背負っていた、青と赤の十字で飾られた盾を地面に置き、聖水で祝福された銀で覆われた自分の剣の柄頭を調整している。
「ふーん。アンタと手を繋がないように気を付けなくちゃねぇ」
「あなたの考えてることぐらい、触れ合わなくてもすぐにわかるよ」
「へー、馬鹿ですいませんねぇ。で、どうなのよ?」
言葉の代わりに、少女は指を指して示した。
指の先には、崩れかけた小さな家屋が見えた。それは崩れかけたとはいえ、原型を留めており、今まで数え切れぬほどに見飽きた、崩れた砂のお城とは全く違っている。女剣士の疑念に少女が答える。
「あの大樹が盾となったようね」
女剣士は、心の中で滅多なことは考えないことにしようと思った。と思ったことでさえ、少女の心に流れ込んでしまっているかも知れないのだが。
女剣士は剣を仕舞うと、決して油断することなく家屋に近づいた。ガラスが嵌っていただろう窓はガラスどころか、窓であることさえ放棄してしまい、ドアと大して違わない存在になっている。いつ崩れるかわからないほどに傷んだ家屋に、女剣士だけが静かに入っていった。金髪の少女は、大樹の側の瓦礫に、そう何処から飛んできたのか見当もつかない瓦礫に腰を下ろした。
「・・・心配しなくても大丈夫よ」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた声は風に揺れる葉のざわめきにかき消される事は無かった。
・・・
何か音が聞こえた。小さな音だ。何かが風を切り裂く音。何かが空気を擦り震わせた音。その音は少女にはっきりと聞こえた。
この大樹には聞こえただろうか。
女剣士が家屋から出てきた。既に剣はまた元の鞘に戻っていた。
少女が再び大樹の幹に触れる。
その瞬間に大樹が、爆ぜた。
まるで、深海の泡のように、虚空へと溶けて消えていく大樹を二人は見つめていた。無音のままに、泡が弾けて消えていく。たくさんのしゃぼん玉が屋根まで届かずに割れるように、泡は太陽に届くことなく消えていく。決して、いつも変わらない太陽の激しく降り注ぐ光の雨が、今日はいつもより強く感じた。
二人は崩れかけた家屋の側に、小さな墓を建てた。墓標だけの墓。他には何もない、単なる瓦礫の石標。それが墓であることなど誰にもわからない。誰にもわかる必要もない。ふたつの墓が家屋の側でこれから永遠に佇むのだ。誰のためでもなく、何かのためでもなく、ただ、そこに死があったことを示す標。生があったことを示す標。それ以上でもそれ以下でもない。永劫の時間でさえ、死と生を割けるのは短すぎるのかもしれない。
「もっと南に向かおうか」
女剣士がポツリと呟いた。
「何処へ行っても一緒じゃないの?」
少女が言う。彼女には聞く前にその答えはわかっているのかもしれない。それでも、女剣士は言った。
「・・・心が寒い」
そして、そこには誰も居なくなった。
そこに、大樹がそびえ立っていた。
緑に萌える枝葉が風に靡き、静かな囁きを創り出している。茶色に色付いた幹は長い年月を刻んでいる。樹齢は数百年、いや千年はくだらないかもしれない。少なくとも、その前で佇む二人には、専門の知識が無いためよくわからない。しかし、この何もない、瓦礫と怨嗟で満ちあふれた荒野に鮮やかな緑の塔は似合わない。
青い長髪の女が、大樹の先端を見上げている。
「・・・私、初めて見たよ」
隣の金髪の少女が、幹に近づきながら答える。
「・・・人間以外にも顕現存在があったとはねぇ。どうでもいいけど、口開けて上向いてるとあなた馬鹿みたいに見えるわよ」
言われて、女は慌てて口を閉じた。それほどに、この大樹は彼女たちを驚かせたのだ。
金髪の少女は、また一歩幹に近づくと、彼女の両の腕を伸ばしても、幹を囲むことが出来ぬ大樹に抱きつくように、手を伸ばした。ひんやりとした感触が、蒸し暑い太陽の下で気持ちよかった。そこにあるはずのない感触があるはずのない両の手を通して、彼女に流れ込んだ。大樹の脈動さえ感じ取れる。
また風が瞬いて、大樹がざわめく。そのざわめきは不安に彩られた悲鳴のように、風に大地に彼女の心に溶けていく。
「・・・わかったわ」
金髪の少女が、剣の手入れを始めていた女剣士の元に戻ってきた。女剣士は、先ほどまで背負っていた、青と赤の十字で飾られた盾を地面に置き、聖水で祝福された銀で覆われた自分の剣の柄頭を調整している。
「ふーん。アンタと手を繋がないように気を付けなくちゃねぇ」
「あなたの考えてることぐらい、触れ合わなくてもすぐにわかるよ」
「へー、馬鹿ですいませんねぇ。で、どうなのよ?」
言葉の代わりに、少女は指を指して示した。
指の先には、崩れかけた小さな家屋が見えた。それは崩れかけたとはいえ、原型を留めており、今まで数え切れぬほどに見飽きた、崩れた砂のお城とは全く違っている。女剣士の疑念に少女が答える。
「あの大樹が盾となったようね」
女剣士は、心の中で滅多なことは考えないことにしようと思った。と思ったことでさえ、少女の心に流れ込んでしまっているかも知れないのだが。
女剣士は剣を仕舞うと、決して油断することなく家屋に近づいた。ガラスが嵌っていただろう窓はガラスどころか、窓であることさえ放棄してしまい、ドアと大して違わない存在になっている。いつ崩れるかわからないほどに傷んだ家屋に、女剣士だけが静かに入っていった。金髪の少女は、大樹の側の瓦礫に、そう何処から飛んできたのか見当もつかない瓦礫に腰を下ろした。
「・・・心配しなくても大丈夫よ」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた声は風に揺れる葉のざわめきにかき消される事は無かった。
・・・
何か音が聞こえた。小さな音だ。何かが風を切り裂く音。何かが空気を擦り震わせた音。その音は少女にはっきりと聞こえた。
この大樹には聞こえただろうか。
女剣士が家屋から出てきた。既に剣はまた元の鞘に戻っていた。
少女が再び大樹の幹に触れる。
その瞬間に大樹が、爆ぜた。
まるで、深海の泡のように、虚空へと溶けて消えていく大樹を二人は見つめていた。無音のままに、泡が弾けて消えていく。たくさんのしゃぼん玉が屋根まで届かずに割れるように、泡は太陽に届くことなく消えていく。決して、いつも変わらない太陽の激しく降り注ぐ光の雨が、今日はいつもより強く感じた。
二人は崩れかけた家屋の側に、小さな墓を建てた。墓標だけの墓。他には何もない、単なる瓦礫の石標。それが墓であることなど誰にもわからない。誰にもわかる必要もない。ふたつの墓が家屋の側でこれから永遠に佇むのだ。誰のためでもなく、何かのためでもなく、ただ、そこに死があったことを示す標。生があったことを示す標。それ以上でもそれ以下でもない。永劫の時間でさえ、死と生を割けるのは短すぎるのかもしれない。
「もっと南に向かおうか」
女剣士がポツリと呟いた。
「何処へ行っても一緒じゃないの?」
少女が言う。彼女には聞く前にその答えはわかっているのかもしれない。それでも、女剣士は言った。
「・・・心が寒い」
そして、そこには誰も居なくなった。
夕輝と黄金色の気まぐれ
2005年6月21日 ShortStory【黄金色の気まぐれ】
夜空にまん丸な月が惜しむことなく大地に柔らかな光を落としている。暗くて深い森にもその光はゆっくりと射し込んでこの世とあの世の境目を滲ませていく。いつだって、光の届かぬ世界は黄泉であり、鬼の住処であった。それでも、月の光は分け隔て無く全てを照らす。人間も人間でない者も。
まだ暑い。
暦の上では夏はもう終わりを迎えたにもかかわらず、まだじっとり暑い。どうもこうして暑いのか。さっさと冬になってしまえばいいのに。人里で人間どもが月見と称して騒いでるのを遠目に見ながら、それはじっと月を見ていた。
・・・暑いのは苦手だ。
金色に輝くふさふさの尻尾を引きずって、月の光を受けたそれはより一層秀麗な姿を映していた。人は彼女の事を悪く言う。凶兆と呼ぶ者さえいる。彼女が来ると国が滅びるそうだ。いい迷惑だ。でも、そんなことは気にもならなかった。別にどうでもよかった。
黒く塗りつぶされたキャンパスに流れ星を描くかのように、彼女は飛んでいった。その姿は幻想的としか言いようが無かった。小判にも宝石にも負けぬ輝きで一筋一筋が際だつ長い九つの尾は西洋渡来のいかな美術品にも負けぬ美しき煌めきを放っている。人間がその毛皮を血眼になって追い求めるのも納得できる。
月見に興じていた人間どもが彼女に気づいたようだ。数瞬の間、その流麗な姿に魅了されていたが、すぐに禍の兆しに恐れ惑い大騒ぎとなった。そんな間抜けどもを高い空から彼女は眺めていた。これ以上の楽しみは無いといったほどにその目を輝かせて。人間が勝手に思いこんで勝手に自滅する様を見るのはなんとも楽しかった。
遠くの大きな邸の主、この辺りの領主だった男が右往左往しているのが見えた。
悪くないオトコだったけどね。
数日前まで、彼女はその男に大層世話を焼いて貰っていた。いや、向こうが勝手に世話を焼いていただけなのだが。見た目も彼女好みであったし、なにより根が良い人物だったので彼女もついつい長居してしまった。けど、それも飽きた。回りがやいのやいのと世話を焼いてくれるのは楽しい。視線に入る全ての男共が自分の前に跪いてくれるのは楽しい。気に入った男に抱かれてやるのも楽しかった。
でも、そんな男共の間抜けな姿を見るのもまた楽しかった。
ついこの間まで、彼女と床を共にしていた男どもの驚き惑う群れを眼下に捕らえながら、彼女は大空を悠然と駆けた。眉目秀麗な女人の姿を取ったときよりも、獣の彼女は美しかった。この島国にある全ての金塊を集めてさえ、九尾の輝きに遠く及ばぬであろう。彼女は自分の美しさを知っている。知っているからこそ、彼女は何時でも美しい。
右往左往する間抜けを眺めるのも飽きた彼女は次の獲物を探しに別の場所に向かって飛んでいった。獲物という言葉は適切ではなかった。彼女は人間をとって喰らったりしない。人間が彼女に勝手に食べ物と楽しみを与えてくれるのだから。
九尾の狐、ナインテイルは別に貴方を破滅させるために貴方の元を訪れるわけではない。彼女はただ愛して欲しいだけ。その愛の果てに破滅するかどうかは貴方の自由だ。
夜空にまん丸な月が惜しむことなく大地に柔らかな光を落としている。暗くて深い森にもその光はゆっくりと射し込んでこの世とあの世の境目を滲ませていく。いつだって、光の届かぬ世界は黄泉であり、鬼の住処であった。それでも、月の光は分け隔て無く全てを照らす。人間も人間でない者も。
まだ暑い。
暦の上では夏はもう終わりを迎えたにもかかわらず、まだじっとり暑い。どうもこうして暑いのか。さっさと冬になってしまえばいいのに。人里で人間どもが月見と称して騒いでるのを遠目に見ながら、それはじっと月を見ていた。
・・・暑いのは苦手だ。
金色に輝くふさふさの尻尾を引きずって、月の光を受けたそれはより一層秀麗な姿を映していた。人は彼女の事を悪く言う。凶兆と呼ぶ者さえいる。彼女が来ると国が滅びるそうだ。いい迷惑だ。でも、そんなことは気にもならなかった。別にどうでもよかった。
黒く塗りつぶされたキャンパスに流れ星を描くかのように、彼女は飛んでいった。その姿は幻想的としか言いようが無かった。小判にも宝石にも負けぬ輝きで一筋一筋が際だつ長い九つの尾は西洋渡来のいかな美術品にも負けぬ美しき煌めきを放っている。人間がその毛皮を血眼になって追い求めるのも納得できる。
月見に興じていた人間どもが彼女に気づいたようだ。数瞬の間、その流麗な姿に魅了されていたが、すぐに禍の兆しに恐れ惑い大騒ぎとなった。そんな間抜けどもを高い空から彼女は眺めていた。これ以上の楽しみは無いといったほどにその目を輝かせて。人間が勝手に思いこんで勝手に自滅する様を見るのはなんとも楽しかった。
遠くの大きな邸の主、この辺りの領主だった男が右往左往しているのが見えた。
悪くないオトコだったけどね。
数日前まで、彼女はその男に大層世話を焼いて貰っていた。いや、向こうが勝手に世話を焼いていただけなのだが。見た目も彼女好みであったし、なにより根が良い人物だったので彼女もついつい長居してしまった。けど、それも飽きた。回りがやいのやいのと世話を焼いてくれるのは楽しい。視線に入る全ての男共が自分の前に跪いてくれるのは楽しい。気に入った男に抱かれてやるのも楽しかった。
でも、そんな男共の間抜けな姿を見るのもまた楽しかった。
ついこの間まで、彼女と床を共にしていた男どもの驚き惑う群れを眼下に捕らえながら、彼女は大空を悠然と駆けた。眉目秀麗な女人の姿を取ったときよりも、獣の彼女は美しかった。この島国にある全ての金塊を集めてさえ、九尾の輝きに遠く及ばぬであろう。彼女は自分の美しさを知っている。知っているからこそ、彼女は何時でも美しい。
右往左往する間抜けを眺めるのも飽きた彼女は次の獲物を探しに別の場所に向かって飛んでいった。獲物という言葉は適切ではなかった。彼女は人間をとって喰らったりしない。人間が彼女に勝手に食べ物と楽しみを与えてくれるのだから。
九尾の狐、ナインテイルは別に貴方を破滅させるために貴方の元を訪れるわけではない。彼女はただ愛して欲しいだけ。その愛の果てに破滅するかどうかは貴方の自由だ。
夕輝とラリーの円盤
2005年6月8日 ShortStory【ラリー・ジャッジメント】
「ーーーーーーーーーーーーーッ!」
声にならない悲鳴が会場にまたひとつ響いた。
それは、《Demonic Consultation》でライブラリ全てが除外されてしまった不幸な亡者の断末魔の叫びにも、《The Abyss》に飲み込まれた罪無き哀れな《Grizzly Bears/灰色熊》の叫びにも似ていた。
「・・・無念」
その黒いジャンパーの男はガクっと膝をつき、大きな音を立てて、その場に崩れ落ちた。彼の心臓が動いていないのは、誰の目にも明らかだ。その男を横目にテーブルには二人の男が座っている。ギャラリーは静まりかえっていた。ある者は目の前の惨劇、そう惨劇と呼ぶにこれほど相応しいものがあろうか、それに目を瞑り顔を背けた。ある者は、奇妙な興奮と《Fear/畏怖》に心を覆われていた。
テーブルに座っているニコライは目の前に、彼と向かい合う形で座っているグルジアノフを睨んだ。
グルジアノフは言った。
「・・・私は何も悪くは無い。悪いのは勉強不足な彼らだよ」
「クソ野郎がっ」
ニコライがスラングを口にするが、彼にもう残された手は無い。
事の始まりは、ニコライがグルジアノフから先制の勝利をあげたことに端を発した。グルジアノフは自分の敗色が濃いと悟るやいなや、かくも卑怯でいて非情な手段に出たのだ。
そう、彼の場には、《Shared Fate/分かち合う運命》が出ていた。
この恐怖のルールブレイカーがこの《Haunting Misery/惨劇の記憶》の主だった。
グルジアノフはわざとルールの不備をつき、難解な質問を、哀れな犠牲者にぶつけたのだ。そして、この会場に居た全てのジャッジが難問にその息の根を止められた。ジャッジが居なければ、当然公式トーナメントは開催できない。
会場の受付を担当していたスタッフの女性の悲痛な声が会場に響いた。
「・・・誰か、誰かお客様の中にジャッジの方はいらっしゃいませんか!」
ニコライは《Mind Maggots/精神蛆》を噛み砕いたかのような顔をしていた。ギャラリーにジャッジが居るはずが無い。だいたい、参加者はジャッジをする事が出来ないのだ・・・
グルジアノフは、《Evil Eye of Orms-by-Gore/オームズ=バイ=ゴアの邪眼》にも勝るとも劣らない邪悪な目で、ニコライを見ていた。その表情には、笑みさえ浮かんでいる。《Volrath the Fallen / 墜ちたる者ヴォルラス》がもし現実に存在するのなら、グルジアノフの事なのではないかとさえ思えた。
しかし、次の瞬間。奇蹟は起きた。
「Hey、俺はジャッジだ」
ギャラリーが一瞬静まり、そして大歓声に沸いた。
「ラリーだ」「Avatar of《Balance/天秤》だ」「なぜこんなところに?」
ギャラリーから様々な言葉が渦のように飛び出し、ニコライの表情は明るくなった。逆に《Volrath the Fallen / 墜ちたる者ヴォルラス》は黒い顔をさらに暗く歪めた。
「さて、私に何か聞きたいことはあるかね?」
ラリーは余裕に満ちあふれた顔でグルジアノフと向き合った。グルジアノフは様々な難問をふっかけたが、悉くラリーのレベル3の英知の前にそれらは《All Sun’s Dawn/全ての太陽の夜明け》に照らされたかの如く解決した。ニコライはこの素晴らしいジャッジに感謝し、グルジアノフに迫った。
グルジアノフの敗北は誰の目にも明らかだった。
「・・・くそっ」
彼の口からあらゆる怨嗟に負けぬ呪いの言葉が迸る。ニコライは勝利を確信していた。
そこで事件は起こった。
グルジアノフはいきなり立ち上がると、《Ball Lightning/ボールライトニング》よりも素早く、ジャケットの内側から、拳銃を取り出すと、ラリーに向かって発砲した。
それはラリーに命中し、ラリーがドンという音と共に倒れた。ギャラリーから《Bloodcurdling Scream/血も凍る悲鳴》があがる。その悲鳴を聞きながら、
「これでジャッジはいなくなった」
グルジアノフが言った。
「・・・デュエリストの風上にも置けないヤツめ」
ニコライが憤怒に体を震わせ、口から言葉を絞り出した。
しかし、次の瞬間、驚くべき事が起こった。
ラリーがいきなり立ち上がり、素早くグルジアノフを押さえつけたのだ!
グルジアノフのみならず、その場にいる誰もが何が起きたのかわからなかった。偉大なるプレインズウォーカーが《Miraculous Recovery/奇蹟の復活》でもキャストしたのだろうか・・・
我に返ったニコライとギャラリーの数人がグルジアノフを押さえつけた。さしものグルジアノフも観念した。
そして、ギャラリーは不思議そうにラリーを見つめていた。
ラリーは胸ポケットからアレを取り出して言った。
「我々の誇りは暴力などでは傷ひとつつけることはできない・・・!」
それは、あの光り輝く《Balance》のカードだった。ジャッジにだけ配られる栄光の印。そのカードが銃弾を受け止めたのだ!それどころか、カードには穴はおろか傷ひとつ付いていなかった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
ギャラリーが大声をあげ、狂信者のようにラリーに駆け寄った。そして、嫌がるラリーを無理矢理胴上げした。
ラリーは決して悪い気はしなかった。自分の力が役に立ったのだ。これほど嬉しいことはあろうか。
その嵐のような《Fervor/熱情》の中で、ニコライがポツリと言った。
「トーナメントに優勝したのは俺なんだけど・・・」
「ーーーーーーーーーーーーーッ!」
声にならない悲鳴が会場にまたひとつ響いた。
それは、《Demonic Consultation》でライブラリ全てが除外されてしまった不幸な亡者の断末魔の叫びにも、《The Abyss》に飲み込まれた罪無き哀れな《Grizzly Bears/灰色熊》の叫びにも似ていた。
「・・・無念」
その黒いジャンパーの男はガクっと膝をつき、大きな音を立てて、その場に崩れ落ちた。彼の心臓が動いていないのは、誰の目にも明らかだ。その男を横目にテーブルには二人の男が座っている。ギャラリーは静まりかえっていた。ある者は目の前の惨劇、そう惨劇と呼ぶにこれほど相応しいものがあろうか、それに目を瞑り顔を背けた。ある者は、奇妙な興奮と《Fear/畏怖》に心を覆われていた。
テーブルに座っているニコライは目の前に、彼と向かい合う形で座っているグルジアノフを睨んだ。
グルジアノフは言った。
「・・・私は何も悪くは無い。悪いのは勉強不足な彼らだよ」
「クソ野郎がっ」
ニコライがスラングを口にするが、彼にもう残された手は無い。
事の始まりは、ニコライがグルジアノフから先制の勝利をあげたことに端を発した。グルジアノフは自分の敗色が濃いと悟るやいなや、かくも卑怯でいて非情な手段に出たのだ。
そう、彼の場には、《Shared Fate/分かち合う運命》が出ていた。
この恐怖のルールブレイカーがこの《Haunting Misery/惨劇の記憶》の主だった。
グルジアノフはわざとルールの不備をつき、難解な質問を、哀れな犠牲者にぶつけたのだ。そして、この会場に居た全てのジャッジが難問にその息の根を止められた。ジャッジが居なければ、当然公式トーナメントは開催できない。
会場の受付を担当していたスタッフの女性の悲痛な声が会場に響いた。
「・・・誰か、誰かお客様の中にジャッジの方はいらっしゃいませんか!」
ニコライは《Mind Maggots/精神蛆》を噛み砕いたかのような顔をしていた。ギャラリーにジャッジが居るはずが無い。だいたい、参加者はジャッジをする事が出来ないのだ・・・
グルジアノフは、《Evil Eye of Orms-by-Gore/オームズ=バイ=ゴアの邪眼》にも勝るとも劣らない邪悪な目で、ニコライを見ていた。その表情には、笑みさえ浮かんでいる。《Volrath the Fallen / 墜ちたる者ヴォルラス》がもし現実に存在するのなら、グルジアノフの事なのではないかとさえ思えた。
しかし、次の瞬間。奇蹟は起きた。
「Hey、俺はジャッジだ」
ギャラリーが一瞬静まり、そして大歓声に沸いた。
「ラリーだ」「Avatar of《Balance/天秤》だ」「なぜこんなところに?」
ギャラリーから様々な言葉が渦のように飛び出し、ニコライの表情は明るくなった。逆に《Volrath the Fallen / 墜ちたる者ヴォルラス》は黒い顔をさらに暗く歪めた。
「さて、私に何か聞きたいことはあるかね?」
ラリーは余裕に満ちあふれた顔でグルジアノフと向き合った。グルジアノフは様々な難問をふっかけたが、悉くラリーのレベル3の英知の前にそれらは《All Sun’s Dawn/全ての太陽の夜明け》に照らされたかの如く解決した。ニコライはこの素晴らしいジャッジに感謝し、グルジアノフに迫った。
グルジアノフの敗北は誰の目にも明らかだった。
「・・・くそっ」
彼の口からあらゆる怨嗟に負けぬ呪いの言葉が迸る。ニコライは勝利を確信していた。
そこで事件は起こった。
グルジアノフはいきなり立ち上がると、《Ball Lightning/ボールライトニング》よりも素早く、ジャケットの内側から、拳銃を取り出すと、ラリーに向かって発砲した。
それはラリーに命中し、ラリーがドンという音と共に倒れた。ギャラリーから《Bloodcurdling Scream/血も凍る悲鳴》があがる。その悲鳴を聞きながら、
「これでジャッジはいなくなった」
グルジアノフが言った。
「・・・デュエリストの風上にも置けないヤツめ」
ニコライが憤怒に体を震わせ、口から言葉を絞り出した。
しかし、次の瞬間、驚くべき事が起こった。
ラリーがいきなり立ち上がり、素早くグルジアノフを押さえつけたのだ!
グルジアノフのみならず、その場にいる誰もが何が起きたのかわからなかった。偉大なるプレインズウォーカーが《Miraculous Recovery/奇蹟の復活》でもキャストしたのだろうか・・・
我に返ったニコライとギャラリーの数人がグルジアノフを押さえつけた。さしものグルジアノフも観念した。
そして、ギャラリーは不思議そうにラリーを見つめていた。
ラリーは胸ポケットからアレを取り出して言った。
「我々の誇りは暴力などでは傷ひとつつけることはできない・・・!」
それは、あの光り輝く《Balance》のカードだった。ジャッジにだけ配られる栄光の印。そのカードが銃弾を受け止めたのだ!それどころか、カードには穴はおろか傷ひとつ付いていなかった。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
ギャラリーが大声をあげ、狂信者のようにラリーに駆け寄った。そして、嫌がるラリーを無理矢理胴上げした。
ラリーは決して悪い気はしなかった。自分の力が役に立ったのだ。これほど嬉しいことはあろうか。
その嵐のような《Fervor/熱情》の中で、ニコライがポツリと言った。
「トーナメントに優勝したのは俺なんだけど・・・」
夕輝とケージ[1]
2005年6月1日 ShortStory 階段を駆け上がっていた。
自分の左手が引っ張られていた。
左手の先を見ると、髪の長い女性を見つけた。
女性は振り返ると、私に向かって片目を瞑った。
その女性は妲恵と名乗った。
妲恵は、先の見えぬほど長い階段を駆け足で私の手を引っ張っていった。果てしなく長い距離とも、限りなく短い距離とも感じる距離を二人は走り抜けた。やがて、階段の先に光が溢れた。
妲恵はまぶしさに脚が止まった私を強引に引っ張り上げた。光が私の両の目を直撃し、その光景が眼前に広がった。
そこは小高い丘の上であった。新緑の色が広がる庭園には、様々な物が並んでいる。ブランコみたいな子供の遊具から、満開の桜の元には白木で出来た椅子とカップが並んだ机があり、清流のせせらぎが流れ、それには小さな橋が架かっている。
何処彼処に、人が居て、皆笑顔であり、楽しんでいるように見えた。辺りは涼しさを感じるが決して寒くはなく、人々の大半は薄着である。よく見ると、妲恵もかなりの薄着であった。下着がうっすら透けて見えたが、そのような些細なことはどうでも良いことのように思われた。
一方、自分は濃い緑色と青色の中間の色をしたコートのような分厚い服を着ていた。そのことに気が付くと、急に暑く感じた。
「脱いだらいいわ、ここの木にでも掛けておけばいいよ」
妲恵に言われるままに、そのコートを脱いだ。コートの下はシャツとジーンズであり、ここの気候にはピッタリの薄着であった。コートは妲恵が近くの木に掛けた。
「さあ、一緒に楽しみましょう!」
小高い丘からはロープウェイみたいなゴンドラが正面の別の丘の上に続いていた。これに乗れば、この綺麗な世界を観賞しながら、移動できるようであった。妲恵は私を引っ張り、それに乗ろうと言い出した。私も依存はなかった。それほど、ここの世界は綺麗であった。右を見れば地平線には、遠浅の海のようなものが広がり、高く輝く太陽の光を反射してきらきらと輝いていたし、左を見れば、高くそびえる山々は幽谷深山の如く、別の芸術心に何かを訴えかける力があった。
しかし、私はロープウェイに乗る直前に自分が高所恐怖症であることを思い出した。いくら景色が良くても、高いところでは脚が竦んでしまうかもしれない。それでは肝心の景色も観賞できないだろう。
私は妲恵に歩いて丘を下りたいと申し出た。
妲恵はちょっと悲しそうな顔をしたが、快く応じてくれた。そのまま、私の腕を引っ張ってあれやこれやと、まるでお節介な観光ガイドのように説明を挟みながら、嵐のように走っていった。
時折、道行く人が私たちの方を見て、手を振って挨拶してくれた。まあ、私ではなく、妲恵と知り合いなのであろう。私には面識はない人たちばかりであった。
やがて、大きな桜の前に着いた。彼女はこぼれんばかりの笑顔で、桜を紹介した。妲恵が言うには、彼女が此処で一番好きな桜なのだそうだ。確かに、今まで見たどのような桜よりも優雅で気品があり、満開ではなく少し葉が見え、花が舞い散っている。絶世の桜であった。
「ちょっと休憩しようか?」
妲恵はそう良いながら、手近にあった白い長椅子に腰掛けた。私もその隣に腰掛けた。
そこで気が付いたのだが、長い距離を半ば走るような速度で移動したにもかかわらず、疲労を全く感じていなかった。階段を駆け上がる時も同じだったことにも気が付いた。私は決して体を動かすことは得意ではなかったのだが。
「どうしたの?何を考えているの?」
妲恵がそう言いながら、いきなり抱きついてきた。突然のことにやや動揺はしたものの、決して悪い気にはならなかった。世の中広くても、薄着の女性に抱きつかれて怒り出す男性は少なかろう。それに、この妲恵という女性。見れば見るほど、美人でもあった。長い黒髪は艶やかにして、まるで絹糸のようであり、体から伸びる四肢はしなやかでその肌は玉のように美しく、陽光の中に輝いていた。
ましてや、桜吹雪の舞う中で、望んでも望み切れぬシチュエーションだ。思わず、どぎまぎして顔を赤くさせても罪には問われまい。そんな私の反応をからかうかのように、妲恵は
「かわいーー」
と私に言うのだった。
その後、彼女は立ち上がると、私を椅子に座らせたまま、すぐ近くにあった赤いレンガでできた家に入った。そして、カップを2つ載せた盆を持って帰ってきた。カップには温かい紅茶がなみなみと注がれていた。
妲恵はひとつを私に差し出すと、もう一つは自分の口に運んだ。桃色の唇が白いカップに触れる。その様子をじっと眺めていたい衝動に駆られたが、私はその誘惑に打ち勝ち、自分のカップを口に運ぶとぼんやりと風景を眺めた。広い庭園には、色とりどりの花が咲き乱れ、人々はめいめいに自由に楽しそうに過ごしてはいた。
カップの中の紅茶は、猫舌の私にとっては少し熱かった。
「ごめん、ちょっと熱すぎた?」
私の心を読んだかのような妲恵の問に、私は首を振って答えた。美味しいよ、と。
事実、濃すぎず薄すぎず苦すぎず甘すぎずのとても美味しい紅茶ではあった。
自分の左手が引っ張られていた。
左手の先を見ると、髪の長い女性を見つけた。
女性は振り返ると、私に向かって片目を瞑った。
その女性は妲恵と名乗った。
妲恵は、先の見えぬほど長い階段を駆け足で私の手を引っ張っていった。果てしなく長い距離とも、限りなく短い距離とも感じる距離を二人は走り抜けた。やがて、階段の先に光が溢れた。
妲恵はまぶしさに脚が止まった私を強引に引っ張り上げた。光が私の両の目を直撃し、その光景が眼前に広がった。
そこは小高い丘の上であった。新緑の色が広がる庭園には、様々な物が並んでいる。ブランコみたいな子供の遊具から、満開の桜の元には白木で出来た椅子とカップが並んだ机があり、清流のせせらぎが流れ、それには小さな橋が架かっている。
何処彼処に、人が居て、皆笑顔であり、楽しんでいるように見えた。辺りは涼しさを感じるが決して寒くはなく、人々の大半は薄着である。よく見ると、妲恵もかなりの薄着であった。下着がうっすら透けて見えたが、そのような些細なことはどうでも良いことのように思われた。
一方、自分は濃い緑色と青色の中間の色をしたコートのような分厚い服を着ていた。そのことに気が付くと、急に暑く感じた。
「脱いだらいいわ、ここの木にでも掛けておけばいいよ」
妲恵に言われるままに、そのコートを脱いだ。コートの下はシャツとジーンズであり、ここの気候にはピッタリの薄着であった。コートは妲恵が近くの木に掛けた。
「さあ、一緒に楽しみましょう!」
小高い丘からはロープウェイみたいなゴンドラが正面の別の丘の上に続いていた。これに乗れば、この綺麗な世界を観賞しながら、移動できるようであった。妲恵は私を引っ張り、それに乗ろうと言い出した。私も依存はなかった。それほど、ここの世界は綺麗であった。右を見れば地平線には、遠浅の海のようなものが広がり、高く輝く太陽の光を反射してきらきらと輝いていたし、左を見れば、高くそびえる山々は幽谷深山の如く、別の芸術心に何かを訴えかける力があった。
しかし、私はロープウェイに乗る直前に自分が高所恐怖症であることを思い出した。いくら景色が良くても、高いところでは脚が竦んでしまうかもしれない。それでは肝心の景色も観賞できないだろう。
私は妲恵に歩いて丘を下りたいと申し出た。
妲恵はちょっと悲しそうな顔をしたが、快く応じてくれた。そのまま、私の腕を引っ張ってあれやこれやと、まるでお節介な観光ガイドのように説明を挟みながら、嵐のように走っていった。
時折、道行く人が私たちの方を見て、手を振って挨拶してくれた。まあ、私ではなく、妲恵と知り合いなのであろう。私には面識はない人たちばかりであった。
やがて、大きな桜の前に着いた。彼女はこぼれんばかりの笑顔で、桜を紹介した。妲恵が言うには、彼女が此処で一番好きな桜なのだそうだ。確かに、今まで見たどのような桜よりも優雅で気品があり、満開ではなく少し葉が見え、花が舞い散っている。絶世の桜であった。
「ちょっと休憩しようか?」
妲恵はそう良いながら、手近にあった白い長椅子に腰掛けた。私もその隣に腰掛けた。
そこで気が付いたのだが、長い距離を半ば走るような速度で移動したにもかかわらず、疲労を全く感じていなかった。階段を駆け上がる時も同じだったことにも気が付いた。私は決して体を動かすことは得意ではなかったのだが。
「どうしたの?何を考えているの?」
妲恵がそう言いながら、いきなり抱きついてきた。突然のことにやや動揺はしたものの、決して悪い気にはならなかった。世の中広くても、薄着の女性に抱きつかれて怒り出す男性は少なかろう。それに、この妲恵という女性。見れば見るほど、美人でもあった。長い黒髪は艶やかにして、まるで絹糸のようであり、体から伸びる四肢はしなやかでその肌は玉のように美しく、陽光の中に輝いていた。
ましてや、桜吹雪の舞う中で、望んでも望み切れぬシチュエーションだ。思わず、どぎまぎして顔を赤くさせても罪には問われまい。そんな私の反応をからかうかのように、妲恵は
「かわいーー」
と私に言うのだった。
その後、彼女は立ち上がると、私を椅子に座らせたまま、すぐ近くにあった赤いレンガでできた家に入った。そして、カップを2つ載せた盆を持って帰ってきた。カップには温かい紅茶がなみなみと注がれていた。
妲恵はひとつを私に差し出すと、もう一つは自分の口に運んだ。桃色の唇が白いカップに触れる。その様子をじっと眺めていたい衝動に駆られたが、私はその誘惑に打ち勝ち、自分のカップを口に運ぶとぼんやりと風景を眺めた。広い庭園には、色とりどりの花が咲き乱れ、人々はめいめいに自由に楽しそうに過ごしてはいた。
カップの中の紅茶は、猫舌の私にとっては少し熱かった。
「ごめん、ちょっと熱すぎた?」
私の心を読んだかのような妲恵の問に、私は首を振って答えた。美味しいよ、と。
事実、濃すぎず薄すぎず苦すぎず甘すぎずのとても美味しい紅茶ではあった。
夕輝とケージ[2]
2005年6月1日 ShortStory[1]からお読みください。
************************************************************
刹那にも感じる短い時間を過ごし、カップを空にすると、遠くから音楽が聞こえてきた。ピアノの柔らかい響きにバイオリンの優雅な音色が混じっていた。
妲恵は再び私の手を取ると
「一緒に踊ろ」
そう言って軽やかにステップを踏み出した。私は踊りなんて踊ったことも無いので丁重に断ろうとしたが、妲恵はそれを許してはくれないようだ。強引に私の腕を引っ張って、踊りの輪の中へと連れて行った。
私は美女に手を引かれ、まんざらではなかった。彼女の華奢で白い手が私を引いた。長い髪が風に靡き、甘い匂いが私を包む。彼女の弾む体は降り注ぐ光の下では天女のようにも見えた。その背に白い翼があれば、誰もが彼女を天使を崇めたであろう。
「さあ、」
結局、彼女に連れられるまま、たいした抵抗もすることなく、踊りの輪に加わってしまった。しかし、踊りの経験など無い私のことだ。回りとのリズムに合わせることもままならないままに、脚がもつれて盛大に尻餅をついてしまった。回りの人に迷惑こそ掛からなかったが、気恥ずかしい気持ちで一杯になった。
「ふふ、おかしな人ね。さあ立って」
妲恵に手を引かれ、再び立ち上がった時に少しおかしな事に気が付いた。回りの人は何も気づいていないのか、こちらには目も向けず踊りを続けている。皆、素晴らしいステップで軽やかに舞い続けている。
私は妲恵の手を逆に引っ張り、輪を抜け出した。
「ちょっ、ちょっとどうしたのよ」
困惑する妲恵が私に引きずられるように、先ほどの桜の下に戻る。誰かが片づけたのか椅子の上に既に先ほどのカップは残っていない。
椅子に腰掛けずに、私は妲恵に一方的に別れを告げて、海の方角へ向かって走り出した。彼女ほどの美女に別れを告げるのはやや心苦しいものもあった。もはや、こんなチャンスは二度と無いだろう。そう二度と無いだろう。いや、一度たりとも無くて可笑しくないほどの幸運とも言えた。
「待って、ねぇ待ってよ」
彼女が追いかけてきた。私の方が少し彼女より足が速かったようで、次第に少しずつ離れていった。遠浅の海辺についた、足下は小さな丸い石で覆われていた。砂地の海岸ではなかった。しかし、もうそのような事はどうでも良かった。この海とも思える遠浅の水辺を私は走っていった。海岸線を越え、数百歩ほどの距離で、妲恵は追いかけるのを諦めたようだ。両の腕を膝で支え、肩を上下させている彼女が遠目に見えた。
「あーあ、結構好みだったんだけどなァ」
妲恵の声が微かに届いた。もはやどうでもよかった。私は走り続けた。どのくらいの距離かもわからない距離を走り続けた。相変わらず、水位は膝下のままだった。よく見れば水底には、宝石のようなきらきら光るものが散らばっていた。しかし、私は目もくれず走った。
やがて、私は海を渡りきった。渡りきった小石の浜辺に一人の男性が立っていた。私は男性の元に駆けていった。
男性は言った。
「もう二度と此処に戻ることは許されない。それでも行くか」
私はその問に答えた。
本当の事を言うと妲恵の事はちょっと心残りではあった。
そして、私の意識は途絶えた。
誰かの声がする。複数の声。怒号も混じる。何かの音がする。機械音のような甲高い音がする。息苦しい。体が動かない。目を開けた。眩しい。口を開けた。声が微かに出た。
「意識戻りました!」
「なんと、奇蹟じゃ」
「心肺停止からもう三十分近くが経過しています」
「脈拍安定しています」
・・・
声が響いている。眩しくて相変わらず何も見えない。うっすらと何かを思い出した。もう二度とできない。ああ、明日ゴミ出しの日だ。忘れないようにしないと。もう睡眠薬も必要ないから、一緒に捨ててしまおう。微かに回りの風景が見えてきた。そこには妲恵は居なかったが、私は居た。
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刹那にも感じる短い時間を過ごし、カップを空にすると、遠くから音楽が聞こえてきた。ピアノの柔らかい響きにバイオリンの優雅な音色が混じっていた。
妲恵は再び私の手を取ると
「一緒に踊ろ」
そう言って軽やかにステップを踏み出した。私は踊りなんて踊ったことも無いので丁重に断ろうとしたが、妲恵はそれを許してはくれないようだ。強引に私の腕を引っ張って、踊りの輪の中へと連れて行った。
私は美女に手を引かれ、まんざらではなかった。彼女の華奢で白い手が私を引いた。長い髪が風に靡き、甘い匂いが私を包む。彼女の弾む体は降り注ぐ光の下では天女のようにも見えた。その背に白い翼があれば、誰もが彼女を天使を崇めたであろう。
「さあ、」
結局、彼女に連れられるまま、たいした抵抗もすることなく、踊りの輪に加わってしまった。しかし、踊りの経験など無い私のことだ。回りとのリズムに合わせることもままならないままに、脚がもつれて盛大に尻餅をついてしまった。回りの人に迷惑こそ掛からなかったが、気恥ずかしい気持ちで一杯になった。
「ふふ、おかしな人ね。さあ立って」
妲恵に手を引かれ、再び立ち上がった時に少しおかしな事に気が付いた。回りの人は何も気づいていないのか、こちらには目も向けず踊りを続けている。皆、素晴らしいステップで軽やかに舞い続けている。
私は妲恵の手を逆に引っ張り、輪を抜け出した。
「ちょっ、ちょっとどうしたのよ」
困惑する妲恵が私に引きずられるように、先ほどの桜の下に戻る。誰かが片づけたのか椅子の上に既に先ほどのカップは残っていない。
椅子に腰掛けずに、私は妲恵に一方的に別れを告げて、海の方角へ向かって走り出した。彼女ほどの美女に別れを告げるのはやや心苦しいものもあった。もはや、こんなチャンスは二度と無いだろう。そう二度と無いだろう。いや、一度たりとも無くて可笑しくないほどの幸運とも言えた。
「待って、ねぇ待ってよ」
彼女が追いかけてきた。私の方が少し彼女より足が速かったようで、次第に少しずつ離れていった。遠浅の海辺についた、足下は小さな丸い石で覆われていた。砂地の海岸ではなかった。しかし、もうそのような事はどうでも良かった。この海とも思える遠浅の水辺を私は走っていった。海岸線を越え、数百歩ほどの距離で、妲恵は追いかけるのを諦めたようだ。両の腕を膝で支え、肩を上下させている彼女が遠目に見えた。
「あーあ、結構好みだったんだけどなァ」
妲恵の声が微かに届いた。もはやどうでもよかった。私は走り続けた。どのくらいの距離かもわからない距離を走り続けた。相変わらず、水位は膝下のままだった。よく見れば水底には、宝石のようなきらきら光るものが散らばっていた。しかし、私は目もくれず走った。
やがて、私は海を渡りきった。渡りきった小石の浜辺に一人の男性が立っていた。私は男性の元に駆けていった。
男性は言った。
「もう二度と此処に戻ることは許されない。それでも行くか」
私はその問に答えた。
本当の事を言うと妲恵の事はちょっと心残りではあった。
そして、私の意識は途絶えた。
誰かの声がする。複数の声。怒号も混じる。何かの音がする。機械音のような甲高い音がする。息苦しい。体が動かない。目を開けた。眩しい。口を開けた。声が微かに出た。
「意識戻りました!」
「なんと、奇蹟じゃ」
「心肺停止からもう三十分近くが経過しています」
「脈拍安定しています」
・・・
声が響いている。眩しくて相変わらず何も見えない。うっすらと何かを思い出した。もう二度とできない。ああ、明日ゴミ出しの日だ。忘れないようにしないと。もう睡眠薬も必要ないから、一緒に捨ててしまおう。微かに回りの風景が見えてきた。そこには妲恵は居なかったが、私は居た。
夕輝と星霜の十字軍[R]
2005年5月19日 ShortStory 夜が来た。
辺りを黒い帳が少しずつ覆っていく。月が、欠けた月が青白く切なげに大地に光を注いでいる。星が散りばめられた今にも崩れ落ちそうな天幕を仰ぎ見ながら、彼女は右手に握る白刃を強く握りしめる。白い刃は白い軌跡を描いて一閃し、それに触れた影、そう黒い影がまた一つ霧散する。
過去の栄光の残り香が薫る廃墟には、焼け焦げたコンクリート片が至る所に死角を作りだしている。いつかは整然と並んでいただろう、ねじ曲がった街灯に今は明かりは灯らない。
かつては、要らぬ光で充ち満ちていた世界とは思えない灰色の世界で、過去の存在たちがただ刻が過ぎゆくのを静かに待っている。
「逢魔が時とは言い得て妙ね」
剣を振るう女性に向かって、まだ幼さの残る少女が呑気な声をあげた。女性は答えず刃を閃かせる。白刃が振るわれるたびに影がいくつも四散し飛び散っていく。女性の青い髪が流れて闇夜に半ば融けていた。
光を失った亡者の群れは、際限なきようにさえ思われた。彼らは何を考え、何を求めているのかは計りかねた。もはや日の光は彼らには害にしかならず、だが彼らの本質は闇を恐れている。救いを求める手は何にも届かない。
「彼らは生きてるんじゃない。死んでないだけよ」
青髪の剣士はそう言いながら、剣を振るう。少女はその後をゆっくりと付いていく。もう何年も何十年も何百年も前の虚飾に彩られた栄華に取り付かれた哀れな存在。輪廻に戻れず終わり無き道程から未だに抜け出せない哀れな死人にして不死者は、闇を恐れ、光を避けて、生と死の狭間で蠢いている。
「・・・あそこに裂け目が見える」
少女は、金髪の髪をかき上げて何処かを指さした。影は既に大半は無に帰し、残りは彼女たちに近寄ることさえできずにいた。女剣士は、少女の指さす方を眺めた。彼女には何も見えなかった。
その方向へ向かうために、彼女たちは道だったところを通り、門だった場所を潜る。月は頭上高くに白く白く輝いていた。いびつに歪んだ月は、もはや満ちることは無かった。死と嘆きが支配する灰色の滅びの森に二人だけの十字軍が進軍を続ける。怨嗟を切り裂き、鋼の残光が一筋の光となって、十字を飾る。
金属とコンクリートが散乱する荒稜に彼岸花が咲き乱れている。乱立する光を失った街灯が卒塔婆にさえ見える。倒壊したコンクリートのビルディングの森は、そうお墓なのだ。虚構と汚れにまみれた背約者どもの墓標。
「・・・同じ事を考えているみたいね」
少女が足下の彼岸花を摘みあげながら振り返った。青髪の女性は刃を鞘に収めながら言った。
「彼岸花は嫌いだ」
「私も好きじゃないわ。なんにせよ長居はしたくないわね」
赤く赤く染まる花は返り血を浴びているかのように紅く紅く。崩壊を飾る彼岸花。いや、彼岸花の"影"。
少女が胸元から一枚の紙切れを取り出した。六鋩星が刻まれた紙片は少女の手を離れ、地面に落ちる。一瞬で燃え上がり虚空に溶けて消えた。
一瞬でその衝撃は、この世に存在しないものを貫いて、真の安寧を辺りへ撒き散らす。音無き鎮魂歌。哀惜の輪唱。無に帰す歓び。そして威風堂々たる凱旋歌となり、彼らは居なくなった。この世に焼き付いた幻象は消え去り、塵も残さない。辺りは青い光に包まれ、元に戻る。本来の姿に沈黙の廃墟へと。彼岸花さえ残らない。
「ねぇ、次は南の方に行かない?」
少女が言った。
「何処でもいいさ。何処に行っても一緒だしさ」
彼女の答えを聞きながら、少女は歩き続けた。空を仰ぐと、漆黒だったはずの夜は青い朝に押し戻されている。東の彼方に小さな太陽が映る。太陽は変わることなく大地を照らし続けている。
「・・・もう誰も居ないのにね」
辺りを黒い帳が少しずつ覆っていく。月が、欠けた月が青白く切なげに大地に光を注いでいる。星が散りばめられた今にも崩れ落ちそうな天幕を仰ぎ見ながら、彼女は右手に握る白刃を強く握りしめる。白い刃は白い軌跡を描いて一閃し、それに触れた影、そう黒い影がまた一つ霧散する。
過去の栄光の残り香が薫る廃墟には、焼け焦げたコンクリート片が至る所に死角を作りだしている。いつかは整然と並んでいただろう、ねじ曲がった街灯に今は明かりは灯らない。
かつては、要らぬ光で充ち満ちていた世界とは思えない灰色の世界で、過去の存在たちがただ刻が過ぎゆくのを静かに待っている。
「逢魔が時とは言い得て妙ね」
剣を振るう女性に向かって、まだ幼さの残る少女が呑気な声をあげた。女性は答えず刃を閃かせる。白刃が振るわれるたびに影がいくつも四散し飛び散っていく。女性の青い髪が流れて闇夜に半ば融けていた。
光を失った亡者の群れは、際限なきようにさえ思われた。彼らは何を考え、何を求めているのかは計りかねた。もはや日の光は彼らには害にしかならず、だが彼らの本質は闇を恐れている。救いを求める手は何にも届かない。
「彼らは生きてるんじゃない。死んでないだけよ」
青髪の剣士はそう言いながら、剣を振るう。少女はその後をゆっくりと付いていく。もう何年も何十年も何百年も前の虚飾に彩られた栄華に取り付かれた哀れな存在。輪廻に戻れず終わり無き道程から未だに抜け出せない哀れな死人にして不死者は、闇を恐れ、光を避けて、生と死の狭間で蠢いている。
「・・・あそこに裂け目が見える」
少女は、金髪の髪をかき上げて何処かを指さした。影は既に大半は無に帰し、残りは彼女たちに近寄ることさえできずにいた。女剣士は、少女の指さす方を眺めた。彼女には何も見えなかった。
その方向へ向かうために、彼女たちは道だったところを通り、門だった場所を潜る。月は頭上高くに白く白く輝いていた。いびつに歪んだ月は、もはや満ちることは無かった。死と嘆きが支配する灰色の滅びの森に二人だけの十字軍が進軍を続ける。怨嗟を切り裂き、鋼の残光が一筋の光となって、十字を飾る。
金属とコンクリートが散乱する荒稜に彼岸花が咲き乱れている。乱立する光を失った街灯が卒塔婆にさえ見える。倒壊したコンクリートのビルディングの森は、そうお墓なのだ。虚構と汚れにまみれた背約者どもの墓標。
「・・・同じ事を考えているみたいね」
少女が足下の彼岸花を摘みあげながら振り返った。青髪の女性は刃を鞘に収めながら言った。
「彼岸花は嫌いだ」
「私も好きじゃないわ。なんにせよ長居はしたくないわね」
赤く赤く染まる花は返り血を浴びているかのように紅く紅く。崩壊を飾る彼岸花。いや、彼岸花の"影"。
少女が胸元から一枚の紙切れを取り出した。六鋩星が刻まれた紙片は少女の手を離れ、地面に落ちる。一瞬で燃え上がり虚空に溶けて消えた。
一瞬でその衝撃は、この世に存在しないものを貫いて、真の安寧を辺りへ撒き散らす。音無き鎮魂歌。哀惜の輪唱。無に帰す歓び。そして威風堂々たる凱旋歌となり、彼らは居なくなった。この世に焼き付いた幻象は消え去り、塵も残さない。辺りは青い光に包まれ、元に戻る。本来の姿に沈黙の廃墟へと。彼岸花さえ残らない。
「ねぇ、次は南の方に行かない?」
少女が言った。
「何処でもいいさ。何処に行っても一緒だしさ」
彼女の答えを聞きながら、少女は歩き続けた。空を仰ぐと、漆黒だったはずの夜は青い朝に押し戻されている。東の彼方に小さな太陽が映る。太陽は変わることなく大地を照らし続けている。
「・・・もう誰も居ないのにね」
なんたって葵ちゃん 第二夜前編
2005年1月30日 ShortStory”第二夜 若者に必要なのは個性だ”
「ホント、ひどいと思わない?ちょっと泥棒と間違えただけであんなに怒ること無いのにさ〜」
アタシの目の前には、翠が居る。キッチンのテーブルはいつも会議室になるのよ。
「いや、それはやっぱり怒るんじゃないかな…」
相変わらず翠はつれない。そんなことアタシだってわかってるわよ!ふん。
翠はアタシと同い年、ここに勤めるようになって初めて知り合ったんだけど、結構イイオンナだと思うよ。背は高くないけど、アタシよりは高いし、胸もある。本人は気にしてるみたいだけど、太めの太股とかも見る人が見たら魅力的なんじゃないかな?
でも、翠は見た目と違って、狙撃のプロ。もちろん、拳銃とかぶっそうなもんは一応持ってないことになってるけど、たまに趣味のサバゲーなんかでスナイパーやってるの。木刀かなんか担いで近接距離で喧嘩になっても負ける気はしないけど、その後はいつ狙撃されるかわかんないから、怖いよね。
「でもさ、夜中にあんなアヤシイ事してたら普通間違うって、翠ちゃんだって拳銃の一発や二発撃ってたって」
「できないできない」
そりゃ、拳銃で狙いさだめる瞬間に気が付いたかもしんないけどさ。御主人様も悪いのよ。いつだって黒のチャイナドレス着てるんだもん。アヤシすぎるのよ。まったく。
「ほら、葵。そろそろ掃除した方がいいわよ。また怒られちゃうわよ」
「いまからやろうと思ってましたーっ!」
そう言って、アタシはキッチンを飛び出して廊下に向かった。
* * *
今日のアタシの仕事は廊下のお掃除。無駄に広いお屋敷には無駄に長い廊下がある。さらに無駄に花瓶やらが並んでるってわけ。客なんてめったに来ないのにね。
バケツに水を汲んで、雑巾絞って装飾品をかるく拭いて、埃や汚れを落としていく。あそこに置いてある中世の甲冑なんか、趣味悪いと思うんだけどさ。邪魔じゃない?掃除しなゃならない面積も広いしさ。それとも本格的なお化け屋敷にでもするつもりかねぇ。
そんな事を考えながら、アタシは大きな花瓶を手に取ったの。
「あっ」
あっという間の出来事だったわ。その花瓶が重力に魂引かれて手から滑り落ちて…。アタシはただ一言叫ぶことと目をつぶることしかできなかった。その後の惨劇を想像しながら。二束三文の皿ならともかく、流石にこの花瓶を割ると大変なことになっちゃうかも知れない。高さうな花瓶だし。もしかしたら、弁償とかいう話になったら…。いやー体を売るのはいやー!
ふとアタシは目をあけた。花瓶が地面に着陸する音がなかなか聞こえなかったからだ。視線を下に向けると、花瓶はふわふわ浮いていた。床すれすれに浮いていた花瓶はゆっくりと上昇し、元に位置にゆっくりと納まった。
「ひーちゃんありがとー」
アタシは向こうから近づいてくる女性にお礼を言った。彼女は緋。アタシの少し後に入ってきたメイドだ。シンボルカラーは赤。赤い制服がよく似合う可愛らしい人。ゆるくウェーブのかかった金髪が、直毛のアタシには少し羨ましい。でも、見た目はアタシたちと同じくらいのくせにアタシたちよりも結構年上だったりするんだ。ふんわりした感じの優しい人で、アタシも大好きだよ。なんか頼りにならないけど一緒に居ると安心できるお姉さんって感じでさ。正確な年齢は知らないんだけど、歳もそんな辺りじゃないかな。
それで、ひーちゃんの特技はなんとびっくり超能力。彼女に会うまでは全然信じてなかったけど、流石に実演されちゃうと信じないわけにはいかないワケ。彼女はサイコキネシスという力を持ってるらしく、遠くから物を動かしたりそんな不思議なことができる。今のように落ちた花瓶を空中で止めることだってできちゃうの。なんて羨ましいのかしら。
「気を付けてくださいね。葵さん」
「は〜い」
アタシはひーちゃんの後ろ姿を手を振りながら見送った。振った手で花瓶を割らないように気を付けながらね。
「ホント、ひどいと思わない?ちょっと泥棒と間違えただけであんなに怒ること無いのにさ〜」
アタシの目の前には、翠が居る。キッチンのテーブルはいつも会議室になるのよ。
「いや、それはやっぱり怒るんじゃないかな…」
相変わらず翠はつれない。そんなことアタシだってわかってるわよ!ふん。
翠はアタシと同い年、ここに勤めるようになって初めて知り合ったんだけど、結構イイオンナだと思うよ。背は高くないけど、アタシよりは高いし、胸もある。本人は気にしてるみたいだけど、太めの太股とかも見る人が見たら魅力的なんじゃないかな?
でも、翠は見た目と違って、狙撃のプロ。もちろん、拳銃とかぶっそうなもんは一応持ってないことになってるけど、たまに趣味のサバゲーなんかでスナイパーやってるの。木刀かなんか担いで近接距離で喧嘩になっても負ける気はしないけど、その後はいつ狙撃されるかわかんないから、怖いよね。
「でもさ、夜中にあんなアヤシイ事してたら普通間違うって、翠ちゃんだって拳銃の一発や二発撃ってたって」
「できないできない」
そりゃ、拳銃で狙いさだめる瞬間に気が付いたかもしんないけどさ。御主人様も悪いのよ。いつだって黒のチャイナドレス着てるんだもん。アヤシすぎるのよ。まったく。
「ほら、葵。そろそろ掃除した方がいいわよ。また怒られちゃうわよ」
「いまからやろうと思ってましたーっ!」
そう言って、アタシはキッチンを飛び出して廊下に向かった。
* * *
今日のアタシの仕事は廊下のお掃除。無駄に広いお屋敷には無駄に長い廊下がある。さらに無駄に花瓶やらが並んでるってわけ。客なんてめったに来ないのにね。
バケツに水を汲んで、雑巾絞って装飾品をかるく拭いて、埃や汚れを落としていく。あそこに置いてある中世の甲冑なんか、趣味悪いと思うんだけどさ。邪魔じゃない?掃除しなゃならない面積も広いしさ。それとも本格的なお化け屋敷にでもするつもりかねぇ。
そんな事を考えながら、アタシは大きな花瓶を手に取ったの。
「あっ」
あっという間の出来事だったわ。その花瓶が重力に魂引かれて手から滑り落ちて…。アタシはただ一言叫ぶことと目をつぶることしかできなかった。その後の惨劇を想像しながら。二束三文の皿ならともかく、流石にこの花瓶を割ると大変なことになっちゃうかも知れない。高さうな花瓶だし。もしかしたら、弁償とかいう話になったら…。いやー体を売るのはいやー!
ふとアタシは目をあけた。花瓶が地面に着陸する音がなかなか聞こえなかったからだ。視線を下に向けると、花瓶はふわふわ浮いていた。床すれすれに浮いていた花瓶はゆっくりと上昇し、元に位置にゆっくりと納まった。
「ひーちゃんありがとー」
アタシは向こうから近づいてくる女性にお礼を言った。彼女は緋。アタシの少し後に入ってきたメイドだ。シンボルカラーは赤。赤い制服がよく似合う可愛らしい人。ゆるくウェーブのかかった金髪が、直毛のアタシには少し羨ましい。でも、見た目はアタシたちと同じくらいのくせにアタシたちよりも結構年上だったりするんだ。ふんわりした感じの優しい人で、アタシも大好きだよ。なんか頼りにならないけど一緒に居ると安心できるお姉さんって感じでさ。正確な年齢は知らないんだけど、歳もそんな辺りじゃないかな。
それで、ひーちゃんの特技はなんとびっくり超能力。彼女に会うまでは全然信じてなかったけど、流石に実演されちゃうと信じないわけにはいかないワケ。彼女はサイコキネシスという力を持ってるらしく、遠くから物を動かしたりそんな不思議なことができる。今のように落ちた花瓶を空中で止めることだってできちゃうの。なんて羨ましいのかしら。
「気を付けてくださいね。葵さん」
「は〜い」
アタシはひーちゃんの後ろ姿を手を振りながら見送った。振った手で花瓶を割らないように気を付けながらね。
なんたって葵ちゃん 第二夜後編
2005年1月30日 ShortStory * * *
その後、幸いにも何一つ破壊することなく、幸いにもって表現もおかしな話だけどさ。廊下の掃除を終えたアタシはメイド長の山吹に言われて地下のワインセラーまで降りてきた。料理とか担当してる白雪さんが荷物を運ぶ人手が欲しいって。ハイ来ました。元々アタシは細々とした仕事には向かないのよ。体使った労働のが絶対向いてると自分でも思うもんね。
階段を下りるとそこはワインセラーが並ぶワイン室。ご主人様はああ見えてワインが大好き。ここには世界各地からいろんなワインを取り寄せては保管してるの。
「ううう。やっぱりここは寒いわねぇ」
ここは年中を通して低温を維持してる。たまに入るとやっぱり少し寒い。夏なんかだと天国に見えるけどね。
「葵さーん。こっちですよ〜」
奥の方から白雪さんの声がする。そっちの方へ小走りで寄っていくと、
「ここは寒いですか、やっぱり。私は寒さとかわかんないんだけど」
白雪さんが言う。真っ白な制服はまるでドレスのようで背の高い白雪さんにはよく似合う。腰まで届く長髪は世の男どもの理想であろう。うんうん。雪よりも真っ白な肌は透明なガラスのように美しい。悔しいけど、アタシは何ひとつ彼女に適いそうにない。まあ腕力だけなら圧勝間違いなし。
「このタルをキッチンまで運んで欲しいんです。私には少し重すぎて」
「いいよ。まっかせて」
白雪さんの手とアタシの手が触れる。氷のように冷たい白雪さんの手。それも当然。彼女は雪女。人間じゃなかったりする。本人が言うには、まだまだ生まれたてらしいんだけど、もう100年以上も生きてれば立派なおばあさんだよね!って本人の前では口が裂けても言えないけどね。
アタシはワインの詰まった樽を持ち上げるとキッチンへ向かった。狭くて急な階段を駆け上る。
ふいに右足が沈む。どうやら段を踏み外したらしい。体勢が泳ぐ。後ろで白雪さんの悲鳴が聞こえたような気がする。
あーあーあー。
何かが床にぶつかって壊れる音と液体がばらまかれる音が聞こえた。そこで意識がとぎれた。
* * *
気が付いたら医務室にいた。別に何処も悪くないらしい。腕も動くし、脚も動く。首に違和感も無ければ、頭がぼーっとすることも無い。ご主人様には頭が悪いのは元からだとかドジなのは先天的なものだとも言われたが。ついでに調理用の白ワインとはいえ、樽ごとダメにしたので、キツイお叱りを覚悟はしていたが、思ったほどではなかった。ちょっとばかりガラスにヒビが入るか入らないかぐらいの大声で怒鳴られたぐらいですんだ。気が付いたときは何もなかったのに、今は耳が痛い。
「なんにせよ、無事で良かったけどさーもうちょっと注意深く生きた方が良いよ?」
ベットの脇で翠が言った。アタシもそう思う。ふと思ったことをアタシは言った。
「ねぇ。白雪さんってさ言ってしまえば、妖怪じゃん。ひーちゃんもサイキッカーだし。アンタはプロの狙撃手。なんでこんな連中が集まってんだろうね」
「それにアンタはドジで間抜けな剣術師範。ホント世の中って不思議よねぇ」
「ホントよねぇ」
アタシは翠の嫌みよりも、セリフの後半に深く同意したのだった。
* * *
「葵は別に何処にも異常は無いようです。明日に緋と共に街に降りて精密検査を受けさせる予定です」
「そう。何事もなさそうでよかったわ」
本棚で埋まりそうな書斎でメイド長の山吹の報告を受け、ご主人様こと紅は安堵のため息をついた。山吹が話を続ける。
「少しお伺いしたいのですが、白雪を推薦したのは私ですが、どうして紅様は、葵や緋、翠といった癖の強い人間を選ぶのですか?別に彼女たちが悪いとかは思いませんけど」
「いいじゃん。別に楽しいからよ。優秀なだけのメイドは不要よ。それは貴方がいれば十分だもの」
紅は山吹の進言にしれっと答えた。そして、書斎にある彼女の仕事場の回転するイスでぶんぶん回っている。
「そうですか、では文句を言わずにお聞き下さい。白ワインの樽が一つ失われましたので、とうとう今月分の食費及び調理用器具の予算を超過しました。追加予算の方をお願いします」
「…」
「そうです、皿等の食器代が割り当て分を超過しています」
「…そうか。葵のヤツめ…」
紅は顔を苦渋に染めた。今月はまだ半分も過ぎていないに…。
その後、幸いにも何一つ破壊することなく、幸いにもって表現もおかしな話だけどさ。廊下の掃除を終えたアタシはメイド長の山吹に言われて地下のワインセラーまで降りてきた。料理とか担当してる白雪さんが荷物を運ぶ人手が欲しいって。ハイ来ました。元々アタシは細々とした仕事には向かないのよ。体使った労働のが絶対向いてると自分でも思うもんね。
階段を下りるとそこはワインセラーが並ぶワイン室。ご主人様はああ見えてワインが大好き。ここには世界各地からいろんなワインを取り寄せては保管してるの。
「ううう。やっぱりここは寒いわねぇ」
ここは年中を通して低温を維持してる。たまに入るとやっぱり少し寒い。夏なんかだと天国に見えるけどね。
「葵さーん。こっちですよ〜」
奥の方から白雪さんの声がする。そっちの方へ小走りで寄っていくと、
「ここは寒いですか、やっぱり。私は寒さとかわかんないんだけど」
白雪さんが言う。真っ白な制服はまるでドレスのようで背の高い白雪さんにはよく似合う。腰まで届く長髪は世の男どもの理想であろう。うんうん。雪よりも真っ白な肌は透明なガラスのように美しい。悔しいけど、アタシは何ひとつ彼女に適いそうにない。まあ腕力だけなら圧勝間違いなし。
「このタルをキッチンまで運んで欲しいんです。私には少し重すぎて」
「いいよ。まっかせて」
白雪さんの手とアタシの手が触れる。氷のように冷たい白雪さんの手。それも当然。彼女は雪女。人間じゃなかったりする。本人が言うには、まだまだ生まれたてらしいんだけど、もう100年以上も生きてれば立派なおばあさんだよね!って本人の前では口が裂けても言えないけどね。
アタシはワインの詰まった樽を持ち上げるとキッチンへ向かった。狭くて急な階段を駆け上る。
ふいに右足が沈む。どうやら段を踏み外したらしい。体勢が泳ぐ。後ろで白雪さんの悲鳴が聞こえたような気がする。
あーあーあー。
何かが床にぶつかって壊れる音と液体がばらまかれる音が聞こえた。そこで意識がとぎれた。
* * *
気が付いたら医務室にいた。別に何処も悪くないらしい。腕も動くし、脚も動く。首に違和感も無ければ、頭がぼーっとすることも無い。ご主人様には頭が悪いのは元からだとかドジなのは先天的なものだとも言われたが。ついでに調理用の白ワインとはいえ、樽ごとダメにしたので、キツイお叱りを覚悟はしていたが、思ったほどではなかった。ちょっとばかりガラスにヒビが入るか入らないかぐらいの大声で怒鳴られたぐらいですんだ。気が付いたときは何もなかったのに、今は耳が痛い。
「なんにせよ、無事で良かったけどさーもうちょっと注意深く生きた方が良いよ?」
ベットの脇で翠が言った。アタシもそう思う。ふと思ったことをアタシは言った。
「ねぇ。白雪さんってさ言ってしまえば、妖怪じゃん。ひーちゃんもサイキッカーだし。アンタはプロの狙撃手。なんでこんな連中が集まってんだろうね」
「それにアンタはドジで間抜けな剣術師範。ホント世の中って不思議よねぇ」
「ホントよねぇ」
アタシは翠の嫌みよりも、セリフの後半に深く同意したのだった。
* * *
「葵は別に何処にも異常は無いようです。明日に緋と共に街に降りて精密検査を受けさせる予定です」
「そう。何事もなさそうでよかったわ」
本棚で埋まりそうな書斎でメイド長の山吹の報告を受け、ご主人様こと紅は安堵のため息をついた。山吹が話を続ける。
「少しお伺いしたいのですが、白雪を推薦したのは私ですが、どうして紅様は、葵や緋、翠といった癖の強い人間を選ぶのですか?別に彼女たちが悪いとかは思いませんけど」
「いいじゃん。別に楽しいからよ。優秀なだけのメイドは不要よ。それは貴方がいれば十分だもの」
紅は山吹の進言にしれっと答えた。そして、書斎にある彼女の仕事場の回転するイスでぶんぶん回っている。
「そうですか、では文句を言わずにお聞き下さい。白ワインの樽が一つ失われましたので、とうとう今月分の食費及び調理用器具の予算を超過しました。追加予算の方をお願いします」
「…」
「そうです、皿等の食器代が割り当て分を超過しています」
「…そうか。葵のヤツめ…」
紅は顔を苦渋に染めた。今月はまだ半分も過ぎていないに…。
なんたって葵ちゃん 第一夜前編
2005年1月15日 ShortStory”第一夜 葵と皿とスクランブル”
ただ、辺りには重い空気が立ちこめている。
その少女の目の前には、漆黒のチャイナドレスに身を包んだ大人の女性が立っている。その姿は、部屋の薄暗い照明に照らされて、妖艶な美しさを醸し出している。長い黒髪はつややかに、伸びる肢体はしなやかにして艶やか。絶世の美女と呼んでも差し支えないかもしれない。
対する少女は、年の頃は二十を数えるかどうか。短く揃えられた緑の髪が小刻みに震えている。それは、寒さに震える小鳥のようである。成長期は過ぎてしまったのだろうが、背は低かった。薄暗い灯りの中では、彼女が女性であるか判別するのはやや難しかった。
二人の年は一回りと離れていないはずだった。 しかし、目の前の美麗な女性には、十と八年を生きた少女よりも何年も人生を歩んでいるという雰囲気がある。もちろん、そこには年を重ねることに対する疲労は微塵も感じえず、むしろ、年を経ることで獲得できる美しさが女性の姿をより美しく見せている。
青と緑のどちらともつかない色のゴシック調の服に身を包んだ小さな少女はただ、目の前の主人に頭を下げることしかできなかった。
そう、緑の髪の少女はその女性のもとで働く一人である。彼女は自分の失敗に対する謝罪のために此処にいた。
しかし、女主人のまなざしは重く冷たい。そして、鋭かった。女主人は、ゆっくりと少女に近づいていった。少女は、ただ頭を下げたまま身動きひとつできなかった。そのまま、近づいてきた女主人の顔が少女の眼前に広がる。その吐息さえも、触れてしまいそうなほどに。
身近で見る自分の主人の顔は綺麗だった。同性である少女の頬にさえ朱が差すほどに。
吐息が触れあう距離を維持しつつ、少女は動かずに我慢していた。いや、動こうと思っても動けなかっただろうし、動こうということさえ頭に浮かばなかった。
その端麗な女主人は、ゆっくりと口を開けて、少女に呟くように言葉をつげた。
「アンタはホントにドジねぇ」
「あ〜ん、ご主人様のばぁかー。こんなに謝ってるのにー」
少女は、その無慈悲な女主人の言葉に大声で反論しながら、その場を走り去ってしまった。
残された女主人は独り言を呟いている。
「まあ、皿割っただけだから、どうでもいいんだけどね。でも、今月に入ってもう三枚目なのよねぇ」
女主人の視線の先には今月のカレンダーがあった。
今月はまだ一週間しか過ぎていなかった。
* * *
「ねぇ、信じられる?アタシの事、ドジでのろまでカメだって言うのよぉ。ちょぉっとお皿割ったくらいでさぁ」
先ほどまで主人に叱られていた少女はキッチンに逃げ込んでいた。椅子に腰掛けて、机の上に広げてあったジャンクフードをつまみながら、彼女は同僚にグチをこぼしていた。
「・・・いやぁ。御館様の言い分ももっともだと私は思うなぁ。だいたい葵は不器用すぎるのよ」
「ひどぉい翠ちゃんまでそんなこと言うんだ〜。いいもんいいもん。アタシなんて一生皿割ってお菊さんやってればいいのよぉ」
お菊さんになる予定のこの少女の名前は葵。先ほどの女主人の住むこの館のメイドの一人。向かいに座ってる同僚は翠。二人はメイドとして、この人里離れた女主人の館に住み込みで勤めている。二人は全く同じデザインの服を纏っているが、葵のそれが青と緑の中間色で統一されているのに対し、翠のそれは黄色と緑で構成されている。
「なんでもいいけど、コーラで酔っぱらう癖は直しなさいよねぇ」
ジャンクフードに手を伸ばしつつ、翠は葵に言った。当の葵はテーブルに突っ伏している。別に酔っぱらって寝ているわけではないが、拗ねているのだろう。二人は同時期にここにやってきた。年も同じでそれなりに気もあった。
その後も翠はまるで酔っぱらったかのように絡んでくる葵をなだめるのに手を焼いた。とはいえ、毎度の事なので慣れているといえばそうなのだが。
そのうちに時計が真夜中をつげ、二人は寝室へと戻っていった。
メイドの朝は早い・・・わけではないのだが、主人より早く起きてしなければならないことはたくさんある。
ただ、辺りには重い空気が立ちこめている。
その少女の目の前には、漆黒のチャイナドレスに身を包んだ大人の女性が立っている。その姿は、部屋の薄暗い照明に照らされて、妖艶な美しさを醸し出している。長い黒髪はつややかに、伸びる肢体はしなやかにして艶やか。絶世の美女と呼んでも差し支えないかもしれない。
対する少女は、年の頃は二十を数えるかどうか。短く揃えられた緑の髪が小刻みに震えている。それは、寒さに震える小鳥のようである。成長期は過ぎてしまったのだろうが、背は低かった。薄暗い灯りの中では、彼女が女性であるか判別するのはやや難しかった。
二人の年は一回りと離れていないはずだった。 しかし、目の前の美麗な女性には、十と八年を生きた少女よりも何年も人生を歩んでいるという雰囲気がある。もちろん、そこには年を重ねることに対する疲労は微塵も感じえず、むしろ、年を経ることで獲得できる美しさが女性の姿をより美しく見せている。
青と緑のどちらともつかない色のゴシック調の服に身を包んだ小さな少女はただ、目の前の主人に頭を下げることしかできなかった。
そう、緑の髪の少女はその女性のもとで働く一人である。彼女は自分の失敗に対する謝罪のために此処にいた。
しかし、女主人のまなざしは重く冷たい。そして、鋭かった。女主人は、ゆっくりと少女に近づいていった。少女は、ただ頭を下げたまま身動きひとつできなかった。そのまま、近づいてきた女主人の顔が少女の眼前に広がる。その吐息さえも、触れてしまいそうなほどに。
身近で見る自分の主人の顔は綺麗だった。同性である少女の頬にさえ朱が差すほどに。
吐息が触れあう距離を維持しつつ、少女は動かずに我慢していた。いや、動こうと思っても動けなかっただろうし、動こうということさえ頭に浮かばなかった。
その端麗な女主人は、ゆっくりと口を開けて、少女に呟くように言葉をつげた。
「アンタはホントにドジねぇ」
「あ〜ん、ご主人様のばぁかー。こんなに謝ってるのにー」
少女は、その無慈悲な女主人の言葉に大声で反論しながら、その場を走り去ってしまった。
残された女主人は独り言を呟いている。
「まあ、皿割っただけだから、どうでもいいんだけどね。でも、今月に入ってもう三枚目なのよねぇ」
女主人の視線の先には今月のカレンダーがあった。
今月はまだ一週間しか過ぎていなかった。
* * *
「ねぇ、信じられる?アタシの事、ドジでのろまでカメだって言うのよぉ。ちょぉっとお皿割ったくらいでさぁ」
先ほどまで主人に叱られていた少女はキッチンに逃げ込んでいた。椅子に腰掛けて、机の上に広げてあったジャンクフードをつまみながら、彼女は同僚にグチをこぼしていた。
「・・・いやぁ。御館様の言い分ももっともだと私は思うなぁ。だいたい葵は不器用すぎるのよ」
「ひどぉい翠ちゃんまでそんなこと言うんだ〜。いいもんいいもん。アタシなんて一生皿割ってお菊さんやってればいいのよぉ」
お菊さんになる予定のこの少女の名前は葵。先ほどの女主人の住むこの館のメイドの一人。向かいに座ってる同僚は翠。二人はメイドとして、この人里離れた女主人の館に住み込みで勤めている。二人は全く同じデザインの服を纏っているが、葵のそれが青と緑の中間色で統一されているのに対し、翠のそれは黄色と緑で構成されている。
「なんでもいいけど、コーラで酔っぱらう癖は直しなさいよねぇ」
ジャンクフードに手を伸ばしつつ、翠は葵に言った。当の葵はテーブルに突っ伏している。別に酔っぱらって寝ているわけではないが、拗ねているのだろう。二人は同時期にここにやってきた。年も同じでそれなりに気もあった。
その後も翠はまるで酔っぱらったかのように絡んでくる葵をなだめるのに手を焼いた。とはいえ、毎度の事なので慣れているといえばそうなのだが。
そのうちに時計が真夜中をつげ、二人は寝室へと戻っていった。
メイドの朝は早い・・・わけではないのだが、主人より早く起きてしなければならないことはたくさんある。
なんたって葵ちゃん 第一夜後編
2005年1月14日 ShortStory * * *
「アタシのせいじゃないのよ、きっと。アレは誰かの陰謀なんだわ」
よくわからないことをブツブツと呟きながら、葵は自分の部屋へと戻った。ここに住み込みで働くメイドには全て一人一人それぞれの部屋が与えられている。それでもまだ部屋は余っていた。何年も使っていないような部屋もたくさんある。人里離れているとはいえ、この大きな館を維持するのは簡単では無い。彼女たちの主人は物書きとしてかなり成功していた。元々資産家の令嬢として生まれたこともあり、大金持ちと言えば大金持ちであった。そんな彼女の主人は人付き合いにうんざりし、山奥の一軒家を買い取り、物書きとしての第二の人生を踏み出したのだ。
もっとも、葵にとってそんなことはどうでもよかったが。
葵は部屋に戻ると、ベットに潜り込んで、部屋の灯りを消した。辺りは真っ暗になる。山奥の森に囲まれた古い屋敷は妖怪でも住んでいそうなくらいの雰囲気があった。とりわけ雷雨なんか降ろうもんなら、そこいらのお化け屋敷なぞ敵ではなかった。
もっとも、葵にとってそんなことは心底どうでもよかった。
幽霊とか妖怪とかそんなものは彼女にとって怖くはない。彼女にとって怖いのは御主人さまと小言がうるさいメイド長の山吹だけだった。
彼女は目を閉じて、眠りにつこうとしたときだった。
みしっ・・・みしっ・・・
廊下での方で何か物音がしたような気がした。葵は気のせいかと思った。
みしっ・・・みしっ・・・
それは気のせいではなかった。葵は枕元に置いてある木の棒を取り出した。それはただの木の棒なんかではなかった。木刀。しかも、それは樹齢千年のとりねこの幹から切り出され、村正のような名前だけの妖刀では無い本当の妖刀月山で削り出され、御神酒で浄められたその道の人もご愛用の逸品だ。
葵は剣術道場の跡取りとして生まれ、若くして師範代の位を持つ刀のエキスパートである。彼女が道場に居た頃は生徒皆に希望を与えたものだ。何せ、どんなにドジで間抜けでも刀を使うのには問題ないことを身を以て証明していたのだから。
葵は木刀を持って、部屋の外に出た。そこには何も居なかったが、廊下の向こうの方で足音がした・・・ような気がした。
「・・・この真夜中に泥棒猫かしら。運が悪いわねぇ」
廊下の向こうにはキッチンがある。彼女がキッチンの側まで行くと、先ほど消したばかりのキッチンに明かりがついていた。彼女が消し忘れた?そんなことは無い。明かりを消したのは翠だ。翠は葵とちがって要領も良く、なんでもそつなくこなした。
キッチンを廊下からそっと覗くと、がしゃがしゃという音と共に冷蔵庫の扉が開いているのが見えた。その前に不審な人影も見えた。
「・・・何を盗ろうってんだろ?」
葵は不思議に思いながら、後ろからそっと近づくと・・・
「泥棒猫!覚悟ーっ!」
手にした木刀を上段に振りかぶり、冷蔵庫の前に座り込む人影に思いっきり振り下ろした。木刀は距離が若干届かず、人影の手前の床に突き刺さった。文字通り突き刺さった。人影は腰を抜かしてこちらを振り返った。そして、大声で叫んだ。
「あおいーーーーーっ!」
「ひぃ〜ごめんなさ〜い〜」
そこに居たのは、ハムを片手に持った葵の主人であった。主人の怒声はキッチン内に響き渡り、食器を調理器具を揺らした。
「ごっごしゅじんさま、いったい何をしてるんですか」
「お腹が減ったのよ」
「・・・はぁ」
葵の主人は、物書きで生活リズムはわりと不規則だった。普段から、夜中に軽い食事を摂ることも多かった。普段、夜食を作っているメイドの白雪は、今日は居なかった。買い出しを兼ねて街の友人宅に泊まっていた。そういうわけで、葵の主人は真夜中に冷蔵庫からハムを出して囓っていたというわけだ。
「あ、あの〜アタシが何か作りましょうか」
「・・・アンタ料理なんか出来んの?」
「まあ、見ててください。卵と、そのハムでオムレツでも作りますよ」
そういって、葵は歯形が入ったハムを取り上げ、冷蔵庫から卵を取り出した。ご主人様は、イスに腰掛けると、テーブルに肘をついてその様子を眺めていた。
意外と家庭的な面もあるらしい。普段は木刀振り回す不器用な女なのに。そんなことに女主人が思案を巡らせていると、ほどなくして葵が作ったオムレツとやらが出てきた。
「・・・なぁ。これはスクランブルエッグじゃないのか?」
「いえ、オムレツです」
皿の上には、やや柔らかめの崩れた卵と、それに散りばめられた大きさが不均一のハムの欠片。どう見てもオムレツにはほど遠い存在が皿の上に鎮座していた。
「いや、やっぱりこれはスクラ」
「いえ、お・む・れ・つです」
主人は何か言うのを諦めた。そしてオムレツと名付けられた新たな創作料理を征服し始めた。葵はそれを楽しそうに眺めていた。その笑顔を見つめながら、主人は塩を砂糖と間違えるという基本的なお約束の間違いが無いことに安堵していた。
「ごちそうさま。後片づけお願いするわね」
「はい。おそまつさまです」
空腹感を満たした主人はキッチンを後にした。そして、仕事の続きをするために書斎への廊下を歩き始めたときだった。
ガシャーン
何か皿のようなものが割れる音がキッチンから響いてきた。
「・・・四枚目ねぇ。本気でお菊さんになるつもりかしら」
女主人の呟きとともに夜はますます更けていった。
「アタシのせいじゃないのよ、きっと。アレは誰かの陰謀なんだわ」
よくわからないことをブツブツと呟きながら、葵は自分の部屋へと戻った。ここに住み込みで働くメイドには全て一人一人それぞれの部屋が与えられている。それでもまだ部屋は余っていた。何年も使っていないような部屋もたくさんある。人里離れているとはいえ、この大きな館を維持するのは簡単では無い。彼女たちの主人は物書きとしてかなり成功していた。元々資産家の令嬢として生まれたこともあり、大金持ちと言えば大金持ちであった。そんな彼女の主人は人付き合いにうんざりし、山奥の一軒家を買い取り、物書きとしての第二の人生を踏み出したのだ。
もっとも、葵にとってそんなことはどうでもよかったが。
葵は部屋に戻ると、ベットに潜り込んで、部屋の灯りを消した。辺りは真っ暗になる。山奥の森に囲まれた古い屋敷は妖怪でも住んでいそうなくらいの雰囲気があった。とりわけ雷雨なんか降ろうもんなら、そこいらのお化け屋敷なぞ敵ではなかった。
もっとも、葵にとってそんなことは心底どうでもよかった。
幽霊とか妖怪とかそんなものは彼女にとって怖くはない。彼女にとって怖いのは御主人さまと小言がうるさいメイド長の山吹だけだった。
彼女は目を閉じて、眠りにつこうとしたときだった。
みしっ・・・みしっ・・・
廊下での方で何か物音がしたような気がした。葵は気のせいかと思った。
みしっ・・・みしっ・・・
それは気のせいではなかった。葵は枕元に置いてある木の棒を取り出した。それはただの木の棒なんかではなかった。木刀。しかも、それは樹齢千年のとりねこの幹から切り出され、村正のような名前だけの妖刀では無い本当の妖刀月山で削り出され、御神酒で浄められたその道の人もご愛用の逸品だ。
葵は剣術道場の跡取りとして生まれ、若くして師範代の位を持つ刀のエキスパートである。彼女が道場に居た頃は生徒皆に希望を与えたものだ。何せ、どんなにドジで間抜けでも刀を使うのには問題ないことを身を以て証明していたのだから。
葵は木刀を持って、部屋の外に出た。そこには何も居なかったが、廊下の向こうの方で足音がした・・・ような気がした。
「・・・この真夜中に泥棒猫かしら。運が悪いわねぇ」
廊下の向こうにはキッチンがある。彼女がキッチンの側まで行くと、先ほど消したばかりのキッチンに明かりがついていた。彼女が消し忘れた?そんなことは無い。明かりを消したのは翠だ。翠は葵とちがって要領も良く、なんでもそつなくこなした。
キッチンを廊下からそっと覗くと、がしゃがしゃという音と共に冷蔵庫の扉が開いているのが見えた。その前に不審な人影も見えた。
「・・・何を盗ろうってんだろ?」
葵は不思議に思いながら、後ろからそっと近づくと・・・
「泥棒猫!覚悟ーっ!」
手にした木刀を上段に振りかぶり、冷蔵庫の前に座り込む人影に思いっきり振り下ろした。木刀は距離が若干届かず、人影の手前の床に突き刺さった。文字通り突き刺さった。人影は腰を抜かしてこちらを振り返った。そして、大声で叫んだ。
「あおいーーーーーっ!」
「ひぃ〜ごめんなさ〜い〜」
そこに居たのは、ハムを片手に持った葵の主人であった。主人の怒声はキッチン内に響き渡り、食器を調理器具を揺らした。
「ごっごしゅじんさま、いったい何をしてるんですか」
「お腹が減ったのよ」
「・・・はぁ」
葵の主人は、物書きで生活リズムはわりと不規則だった。普段から、夜中に軽い食事を摂ることも多かった。普段、夜食を作っているメイドの白雪は、今日は居なかった。買い出しを兼ねて街の友人宅に泊まっていた。そういうわけで、葵の主人は真夜中に冷蔵庫からハムを出して囓っていたというわけだ。
「あ、あの〜アタシが何か作りましょうか」
「・・・アンタ料理なんか出来んの?」
「まあ、見ててください。卵と、そのハムでオムレツでも作りますよ」
そういって、葵は歯形が入ったハムを取り上げ、冷蔵庫から卵を取り出した。ご主人様は、イスに腰掛けると、テーブルに肘をついてその様子を眺めていた。
意外と家庭的な面もあるらしい。普段は木刀振り回す不器用な女なのに。そんなことに女主人が思案を巡らせていると、ほどなくして葵が作ったオムレツとやらが出てきた。
「・・・なぁ。これはスクランブルエッグじゃないのか?」
「いえ、オムレツです」
皿の上には、やや柔らかめの崩れた卵と、それに散りばめられた大きさが不均一のハムの欠片。どう見てもオムレツにはほど遠い存在が皿の上に鎮座していた。
「いや、やっぱりこれはスクラ」
「いえ、お・む・れ・つです」
主人は何か言うのを諦めた。そしてオムレツと名付けられた新たな創作料理を征服し始めた。葵はそれを楽しそうに眺めていた。その笑顔を見つめながら、主人は塩を砂糖と間違えるという基本的なお約束の間違いが無いことに安堵していた。
「ごちそうさま。後片づけお願いするわね」
「はい。おそまつさまです」
空腹感を満たした主人はキッチンを後にした。そして、仕事の続きをするために書斎への廊下を歩き始めたときだった。
ガシャーン
何か皿のようなものが割れる音がキッチンから響いてきた。
「・・・四枚目ねぇ。本気でお菊さんになるつもりかしら」
女主人の呟きとともに夜はますます更けていった。
夕輝と星霜の十字軍
2004年12月27日 ShortStory【星霜の十字軍】
夜が来た。
辺りを黒い帳が覆い尽くしていく。青白く輝く月が切なげな光をこの荒れ果てた地球に降り注ぐ。星が散りばめられた崩れ落ちそうな天幕を仰ぎ見る。彼女は右手に握りしめた剣の柄の感触を感じる。鞘から解き放たれた白刃は残光を残して閃き、闇を切り裂き一蹴する。
過去の栄光の残り香が香り立つ廃墟には焼けこげた灰色のコンクリートの塊が至る所に死角を作りだしている。ねじ曲がった街灯と呼ばれたものが静かに時が流れるのをただひたすらに待っている。
迫り来る暗闇の軍勢は音も立てずに忍び寄る。光を失った亡者の群れが至る所に潜んでいる。彼女が白刃を一閃させるごとにふたつみっつの黒い影が霧散し消える。
「・・・成仏?私は仏様なんて信じてないからね。そんなことはわからないよ」
彼女は振り返り、少女の問いに答える。もう何年も何十年も前の微かな虚飾の栄光にすがりつくように、己の死さえ理解できない哀れな影が灰色に染まった滅びの森で蠢いている。
「彼らは生きているんじゃないわ、死んでいないだけよ」
彼女はそう言いながら、白銀の刃を虚空に滑らせ、影を四散させていく。その後を静かに少女は付いていく。道ばたに原型を留めず色もわからないほどに錆びを浮かせた何かが転がっている。星霜の彼方に失われた人間達の過去がそこにある。
少女が指さした先には小さな広場があった。かつては人で賑わい、鮮やかな灯火と陽気な声が響いたであろう地も、今では何も無い広場、いや闇と影、そして悲哀に充ち満ちた場所と化している。
暗い夜に金色の髪を靡かせ、青い服に身を包んだ少女と亜麻色の女剣士は、そこに向かっていた。
「あそこに境目が見える・・・」
少女が指を指したのは、小さな石碑。それだけは崩壊の闇に飲み込まれず原型をこの世に留めていた。広場にはかつて、そこに何かが飾られていただろう台座と樹木が生い茂っていたであろう荒れ地が広がり、崩れた壁と門が彼女たちを歓迎していた。
月は満ち、頭上空高くで白く白く輝いている。漆黒の存在は月に照らされて、闇の奥深くへと退散していく。死と嘆きが支配する灰色の滅びの森に二人だけの十字軍が進軍を続ける。暗き怨嗟を切り裂き、鋼の残光が一筋の光となって、十字を飾る。
草木一つ無い荒稜に彼岸花が咲き乱れている。乱立する光を失った街灯が卒塔婆にさえ見える。倒壊したコンクリートのビルディングの森は、そうお墓なのだ。虚構と汚れに彩られた背約者どもの墓標。
「・・・私も同じ事考えてた」
少女が足下の彼岸花を摘みながら振り返る。
彼女は白銀の太刀を鞘に収めると、大きく伸びをする。味のないなま暖かいものが彼女の肺を満たしていく。彼女は咽せた。
「あまり長居したい場所じゃないことは確かね」
彼女はそう言いながら、背中の鞄から折りたたまれた紙切れを取り出した。紙切れは少女の手に渡り、それは広げられる。赤い六鋩星が描かれた紙きれを足下に広げた彼女は目を閉じて何かを呟いた。
赤い星が紙切れを抜け出して、そのまま地面に焼き付いた。何処からかチャーチオルガンの聖音が鳴り響き、辺りが光に満ちた。
二人の女性が声を揃えて、賛美の唱を奏でる。青白い月が煌めく夜に溢れる光の中心で美しい声が響き渡る。清浄なる鎮魂歌に耐えられない哀しい影が闇夜に熔けていく。風が渦巻き、不浄な存在を吹き上げていく。
音を立てて、何かが壊れた。
そして、そこにはもう彼女たちの姿は無かった。死せざる影の姿も滅びの森の面影も。
ただ、彼岸花だけが鮮やかに咲き乱れ、月夜に映えていた。
「ねぇ、次は南の方に行かない?」
少女が言った。彼女は何も言わずに、剣を横に薙いだ。影がまたひとつ四散する。
「何処でもいいさ。何処に行っても一緒だしさ」
彼女の答えを聞きながら、少女は歩き続けた。空を仰ぐと、黒い夜は青い朝に押し戻されている。東の彼方に小さな太陽が映る。太陽は変わらず、大地を照らしている。
「・・・もう誰も居ないのにね」
夜が来た。
辺りを黒い帳が覆い尽くしていく。青白く輝く月が切なげな光をこの荒れ果てた地球に降り注ぐ。星が散りばめられた崩れ落ちそうな天幕を仰ぎ見る。彼女は右手に握りしめた剣の柄の感触を感じる。鞘から解き放たれた白刃は残光を残して閃き、闇を切り裂き一蹴する。
過去の栄光の残り香が香り立つ廃墟には焼けこげた灰色のコンクリートの塊が至る所に死角を作りだしている。ねじ曲がった街灯と呼ばれたものが静かに時が流れるのをただひたすらに待っている。
迫り来る暗闇の軍勢は音も立てずに忍び寄る。光を失った亡者の群れが至る所に潜んでいる。彼女が白刃を一閃させるごとにふたつみっつの黒い影が霧散し消える。
「・・・成仏?私は仏様なんて信じてないからね。そんなことはわからないよ」
彼女は振り返り、少女の問いに答える。もう何年も何十年も前の微かな虚飾の栄光にすがりつくように、己の死さえ理解できない哀れな影が灰色に染まった滅びの森で蠢いている。
「彼らは生きているんじゃないわ、死んでいないだけよ」
彼女はそう言いながら、白銀の刃を虚空に滑らせ、影を四散させていく。その後を静かに少女は付いていく。道ばたに原型を留めず色もわからないほどに錆びを浮かせた何かが転がっている。星霜の彼方に失われた人間達の過去がそこにある。
少女が指さした先には小さな広場があった。かつては人で賑わい、鮮やかな灯火と陽気な声が響いたであろう地も、今では何も無い広場、いや闇と影、そして悲哀に充ち満ちた場所と化している。
暗い夜に金色の髪を靡かせ、青い服に身を包んだ少女と亜麻色の女剣士は、そこに向かっていた。
「あそこに境目が見える・・・」
少女が指を指したのは、小さな石碑。それだけは崩壊の闇に飲み込まれず原型をこの世に留めていた。広場にはかつて、そこに何かが飾られていただろう台座と樹木が生い茂っていたであろう荒れ地が広がり、崩れた壁と門が彼女たちを歓迎していた。
月は満ち、頭上空高くで白く白く輝いている。漆黒の存在は月に照らされて、闇の奥深くへと退散していく。死と嘆きが支配する灰色の滅びの森に二人だけの十字軍が進軍を続ける。暗き怨嗟を切り裂き、鋼の残光が一筋の光となって、十字を飾る。
草木一つ無い荒稜に彼岸花が咲き乱れている。乱立する光を失った街灯が卒塔婆にさえ見える。倒壊したコンクリートのビルディングの森は、そうお墓なのだ。虚構と汚れに彩られた背約者どもの墓標。
「・・・私も同じ事考えてた」
少女が足下の彼岸花を摘みながら振り返る。
彼女は白銀の太刀を鞘に収めると、大きく伸びをする。味のないなま暖かいものが彼女の肺を満たしていく。彼女は咽せた。
「あまり長居したい場所じゃないことは確かね」
彼女はそう言いながら、背中の鞄から折りたたまれた紙切れを取り出した。紙切れは少女の手に渡り、それは広げられる。赤い六鋩星が描かれた紙きれを足下に広げた彼女は目を閉じて何かを呟いた。
赤い星が紙切れを抜け出して、そのまま地面に焼き付いた。何処からかチャーチオルガンの聖音が鳴り響き、辺りが光に満ちた。
二人の女性が声を揃えて、賛美の唱を奏でる。青白い月が煌めく夜に溢れる光の中心で美しい声が響き渡る。清浄なる鎮魂歌に耐えられない哀しい影が闇夜に熔けていく。風が渦巻き、不浄な存在を吹き上げていく。
音を立てて、何かが壊れた。
そして、そこにはもう彼女たちの姿は無かった。死せざる影の姿も滅びの森の面影も。
ただ、彼岸花だけが鮮やかに咲き乱れ、月夜に映えていた。
「ねぇ、次は南の方に行かない?」
少女が言った。彼女は何も言わずに、剣を横に薙いだ。影がまたひとつ四散する。
「何処でもいいさ。何処に行っても一緒だしさ」
彼女の答えを聞きながら、少女は歩き続けた。空を仰ぐと、黒い夜は青い朝に押し戻されている。東の彼方に小さな太陽が映る。太陽は変わらず、大地を照らしている。
「・・・もう誰も居ないのにね」
夕輝と無銘の舞姫
2004年12月7日 ShortStory【無銘の舞姫】
冷たい風が駆け抜ける。冬でもないのに寒さが辺りを支配する。丸い月が夜空に輝き、柔らかな光を湖に注ぐ。森の奥の開けた場所にその湖はあった。
また、冷たい風が吹き抜けた。ちらちらと粉雪を舞い上げて、風が通り抜けた跡には、薄い氷が張った湖だけが残っている。湖を覆う薄い氷膜は透き通ったガラスのように、輝くダイヤのように月の光に映えた。
それは彼女だけの特別の劇場。
一陣の風と、舞い散る粉雪に紛れて彼女は湖面を滑る。広い湖の全てを使って軽やかに煌びやかに艶やかに演舞を披露する。彼女の軌跡を蒼い雪の雫と月光のきらめきが辿っていく。
空よりも真っ青な髪を靡かせ、透き通る碧い体は宝石のごとく美しい。小さな体は幼き少女のようで、伸びきらない四肢を惜しげもなく月の輝きに晒している。月の蒼い光に照らされ、粉雪の舞う湖の幻想的な雰囲気の中にいて、彼女はなお眩しくなお美しくいた。
薄闇のカーテンに覆われた、蒼いスケートリンクの舞姫にも悩みはある。彼女のその悩みはその演舞にも現れ、より一層の深みを帯びる。彼女の腕の一振りに脚さばきひとつに彼女自身が体現されている。
・・・どうしてなの
彼女の氷上の舞は止まらない。月が輝き、星が煌めいても揺らぐことの無い美しさと蒼い粉雪を舞い散らして。
私は火霊よりも激しく、水霊よりも美しく
土精より繊細で、風精よりも従順なのに・・・
風の音に木々が唄う。小さな草花が音色を奏でる。彼女の耳にしか届かないオーケストラが夜空に響き渡る。盛大な命の協奏曲に合わせて、美しくも悲しげな碧い少女の演舞は加速する。辺りに舞い散る粉雪が霜となり、木々を濡らす。蒼い風が吹き抜けて、夜空を凍えさせる。
・・・でも、きっといつか私を必要としてくれる方が見つかる
雪と風と森の演出が高まる中、強い灯火を抱いた彼女の瞳が揺れる。風が唸り、雪を吹き上げ、木々がざわめく。草花が悲鳴をあげ、辺りが氷のとばりで覆われ、弾けて、風に溶けて流れる。
嵐のような終幕を演じきった少女はいつの間にか湖面から、湖の岸辺で腰を下ろしていた。いつしか湖面の氷は消え失せて、木々も唄うのを止める。跡には波一つ無い張りつめたような湖面だけ。
碧い少女はいつまでも鏡のような湖面に自分の素顔を映していた。
名も知られぬ舞姫の演技が終わりを告げる。
残ったのは名演の女優ではなく、一人の乙女。
氷精フラウは呼びかけてくれるまだ見ぬ主をいつまでも待っている。
冷たい風が駆け抜ける。冬でもないのに寒さが辺りを支配する。丸い月が夜空に輝き、柔らかな光を湖に注ぐ。森の奥の開けた場所にその湖はあった。
また、冷たい風が吹き抜けた。ちらちらと粉雪を舞い上げて、風が通り抜けた跡には、薄い氷が張った湖だけが残っている。湖を覆う薄い氷膜は透き通ったガラスのように、輝くダイヤのように月の光に映えた。
それは彼女だけの特別の劇場。
一陣の風と、舞い散る粉雪に紛れて彼女は湖面を滑る。広い湖の全てを使って軽やかに煌びやかに艶やかに演舞を披露する。彼女の軌跡を蒼い雪の雫と月光のきらめきが辿っていく。
空よりも真っ青な髪を靡かせ、透き通る碧い体は宝石のごとく美しい。小さな体は幼き少女のようで、伸びきらない四肢を惜しげもなく月の輝きに晒している。月の蒼い光に照らされ、粉雪の舞う湖の幻想的な雰囲気の中にいて、彼女はなお眩しくなお美しくいた。
薄闇のカーテンに覆われた、蒼いスケートリンクの舞姫にも悩みはある。彼女のその悩みはその演舞にも現れ、より一層の深みを帯びる。彼女の腕の一振りに脚さばきひとつに彼女自身が体現されている。
・・・どうしてなの
彼女の氷上の舞は止まらない。月が輝き、星が煌めいても揺らぐことの無い美しさと蒼い粉雪を舞い散らして。
私は火霊よりも激しく、水霊よりも美しく
土精より繊細で、風精よりも従順なのに・・・
風の音に木々が唄う。小さな草花が音色を奏でる。彼女の耳にしか届かないオーケストラが夜空に響き渡る。盛大な命の協奏曲に合わせて、美しくも悲しげな碧い少女の演舞は加速する。辺りに舞い散る粉雪が霜となり、木々を濡らす。蒼い風が吹き抜けて、夜空を凍えさせる。
・・・でも、きっといつか私を必要としてくれる方が見つかる
雪と風と森の演出が高まる中、強い灯火を抱いた彼女の瞳が揺れる。風が唸り、雪を吹き上げ、木々がざわめく。草花が悲鳴をあげ、辺りが氷のとばりで覆われ、弾けて、風に溶けて流れる。
嵐のような終幕を演じきった少女はいつの間にか湖面から、湖の岸辺で腰を下ろしていた。いつしか湖面の氷は消え失せて、木々も唄うのを止める。跡には波一つ無い張りつめたような湖面だけ。
碧い少女はいつまでも鏡のような湖面に自分の素顔を映していた。
名も知られぬ舞姫の演技が終わりを告げる。
残ったのは名演の女優ではなく、一人の乙女。
氷精フラウは呼びかけてくれるまだ見ぬ主をいつまでも待っている。
夕輝と自由の貴族
2004年11月17日 ShortStory【自由の貴族】
遠くの山に陽が沈みつつある夕暮れ時。
街では、行き交う人々が帰りを急いでいる中を人間とすれ違うように彼は歩いていた。急ぎ足の人間は彼を気に留めることはなかったし、彼も人間なぞに特に興味もない。
いつもの生鮮食品を扱う店の前を通ると、太ったおばちゃんが出てきて、彼にリンゴの切れ端をくれた。彼は一声にゃあと鳴くと、リンゴを口にいれる。果物は嫌いではなかった。人間が好きで自分に何かをくれるのだから、それは貰っておく。
彼は、すれ違う小走りの貧相な男性を眺めつつ思う。
人間はなぜ、こうも行き急ぐのだろうか、と。
生鮮食品のおばちゃんがふと目を離した瞬間には既に彼の姿は何処にもなかった。彼は留まらない。彼は彼の命じるままに脚を動かす。
人間は物好きだ。彼をペットにしようという者が居た。だが、彼は人間などという矮小な輩に世話になろうなどと微塵も思わない。だから、誰も彼を手に入れることは出来なかった。
白い尻尾を左右に揺らして、真っ白な体に黒い斑で飾り付けられた彼の雄姿は、罪深くも人間を魅了してしまうのか。
彼は自分の罪深さを神に懺悔した。が、彼は神の存在を信じてはいないのだが。
彼が裏路地にさしかかったところで、目の前に大きな犬が現れた。猟犬などでは無いが、彼よりも一回りも二回りも大きい体をしたその犬は姿勢を低くして、彼に向かってうなり声を上げていた。
彼はため息をついた。
人間は馬鹿だが、獣は利口だ。そんなことを考えながら、彼は犬と目を合わせた。その犬はおそらく、彼が見た目通りのものでは無いことを感じ取っているのだろう。
目が合った瞬間に犬は吠えだした。弱い犬ほどよく吠えるとは言ったものだ。彼は少しうんざりしながら、気まぐれも手伝ってこの犬を追っ払うことにした。普段なら、街中で力を使うことはあまりしない。人間に見つかったら面白いことにはならないからだ。
彼の目が緑色の光を放った。同時に、彼はすくっと後ろ脚だけで立ち上がると、前脚を高く上げ威嚇のポーズを取った。犬は驚いて後ずさりをしている間に、彼の姿はどんどん大きくなった。
やがて、大柄な人間ほどの身長にまで大きくなったときに、裏路地に大きなうなり声が響いた。猫科の大型肉食獣の鬨の声だ。もちろん彼の声だ。次の瞬間には、犬は一目散に走って逃げていってしまった。
後には、本来の姿をした彼だけが取り残された。黒いつばの広い羽根飾りの付いた帽子に、白いレイピアと黒のタキシード。そして長靴。
彼は久しぶりに本来の姿に戻ったが、次の瞬間、また元の小さな猫の姿に戻った。本来の姿は好きじゃないし、彼にとってはこの猫の姿が本当の姿だった。
彼はふと、視線を感じて後ろを振り返った。
建物の影から一人の人間が覗いていた。
・・・しまった。見られた・・・かな?
幸いにも、その人間は彼の本来の姿を見ては居なかったようだ。不審な獣のうなり声、そう彼の声だ、につられてやってきたようだ。
その人間は、彼の姿に気が付くと、彼に近寄ってきて優しく抱き上げた。
「おまえもひとりぼっちなんだね。ウチにおいでよ」
彼を抱き上げた人間は、彼を抱いたまま表通りの方へと歩いていった。
彼は人間の世話にならない。だが、たまには人間と”同居”するのも悪くはない。人間が頼むのなら仕方がない。頼まれてやるとしよう。この人間の女性はちょっと好みのタイプだから、な。
彼はそんなことを思いながら、にゃあと鳴いた。
自由の象徴たるケットシーは自由気ままに生きている。
彼を飼い慣らすことは何人にも不可能であるが、
彼に気に入られることは案外簡単かもしれない。
遠くの山に陽が沈みつつある夕暮れ時。
街では、行き交う人々が帰りを急いでいる中を人間とすれ違うように彼は歩いていた。急ぎ足の人間は彼を気に留めることはなかったし、彼も人間なぞに特に興味もない。
いつもの生鮮食品を扱う店の前を通ると、太ったおばちゃんが出てきて、彼にリンゴの切れ端をくれた。彼は一声にゃあと鳴くと、リンゴを口にいれる。果物は嫌いではなかった。人間が好きで自分に何かをくれるのだから、それは貰っておく。
彼は、すれ違う小走りの貧相な男性を眺めつつ思う。
人間はなぜ、こうも行き急ぐのだろうか、と。
生鮮食品のおばちゃんがふと目を離した瞬間には既に彼の姿は何処にもなかった。彼は留まらない。彼は彼の命じるままに脚を動かす。
人間は物好きだ。彼をペットにしようという者が居た。だが、彼は人間などという矮小な輩に世話になろうなどと微塵も思わない。だから、誰も彼を手に入れることは出来なかった。
白い尻尾を左右に揺らして、真っ白な体に黒い斑で飾り付けられた彼の雄姿は、罪深くも人間を魅了してしまうのか。
彼は自分の罪深さを神に懺悔した。が、彼は神の存在を信じてはいないのだが。
彼が裏路地にさしかかったところで、目の前に大きな犬が現れた。猟犬などでは無いが、彼よりも一回りも二回りも大きい体をしたその犬は姿勢を低くして、彼に向かってうなり声を上げていた。
彼はため息をついた。
人間は馬鹿だが、獣は利口だ。そんなことを考えながら、彼は犬と目を合わせた。その犬はおそらく、彼が見た目通りのものでは無いことを感じ取っているのだろう。
目が合った瞬間に犬は吠えだした。弱い犬ほどよく吠えるとは言ったものだ。彼は少しうんざりしながら、気まぐれも手伝ってこの犬を追っ払うことにした。普段なら、街中で力を使うことはあまりしない。人間に見つかったら面白いことにはならないからだ。
彼の目が緑色の光を放った。同時に、彼はすくっと後ろ脚だけで立ち上がると、前脚を高く上げ威嚇のポーズを取った。犬は驚いて後ずさりをしている間に、彼の姿はどんどん大きくなった。
やがて、大柄な人間ほどの身長にまで大きくなったときに、裏路地に大きなうなり声が響いた。猫科の大型肉食獣の鬨の声だ。もちろん彼の声だ。次の瞬間には、犬は一目散に走って逃げていってしまった。
後には、本来の姿をした彼だけが取り残された。黒いつばの広い羽根飾りの付いた帽子に、白いレイピアと黒のタキシード。そして長靴。
彼は久しぶりに本来の姿に戻ったが、次の瞬間、また元の小さな猫の姿に戻った。本来の姿は好きじゃないし、彼にとってはこの猫の姿が本当の姿だった。
彼はふと、視線を感じて後ろを振り返った。
建物の影から一人の人間が覗いていた。
・・・しまった。見られた・・・かな?
幸いにも、その人間は彼の本来の姿を見ては居なかったようだ。不審な獣のうなり声、そう彼の声だ、につられてやってきたようだ。
その人間は、彼の姿に気が付くと、彼に近寄ってきて優しく抱き上げた。
「おまえもひとりぼっちなんだね。ウチにおいでよ」
彼を抱き上げた人間は、彼を抱いたまま表通りの方へと歩いていった。
彼は人間の世話にならない。だが、たまには人間と”同居”するのも悪くはない。人間が頼むのなら仕方がない。頼まれてやるとしよう。この人間の女性はちょっと好みのタイプだから、な。
彼はそんなことを思いながら、にゃあと鳴いた。
自由の象徴たるケットシーは自由気ままに生きている。
彼を飼い慣らすことは何人にも不可能であるが、
彼に気に入られることは案外簡単かもしれない。
夕輝と怠惰なる勤勉者
2004年11月14日 ShortStory【怠惰なる勤勉者】
そこには、立派なソファーが置いてあった。人間の王族が使うような立派なヤツだ。
そのソファーに深々と身を預ける男が居た。そいつは、鼻提灯をふくらませて、豪快に高いびきをかいている。
その顔は目鼻は整い、筋は通っていて、絶世の美男子といったところだ。彼に見つめられて頬を染めない女性などいないだろう。その美男子が鼻提灯と高いびきを友にソファーで居眠りしているのだ。なかなか想像できる情景ではない。
その部屋の扉がノックされる。
初めは普通のノックも次第に大きく激しく扉が揺れて壊れそうになりそうになるまでになる。そこまでなって、初めて男は起きた。扉を開けると彼の部下が居た。部下は言った。彼の上司が来ている、と。
彼は部下に上司をこの部屋に通すように命じると、再びソファーに深々と腰を下ろした。彼の上司がこの部屋に訪れるまでに、彼が再び夢の底へと落ちることは彼にとって難しくも何ともなかった。
「・・・相変わらずだな」
部屋に入ってきた上司はそう呟いた。
部屋は多くの装飾品で飾られ、机は大理石だ。そして、人間の王族でもなかなか使わないだろう、接客用の素晴らしいソファー。もっともこの男は自分のためにそのソファーをこの部屋に入れたんだろうがな。
そのソファーにはその男がまた高いびきをかいていた。
上司は、その男を大声で起こした。正確には、彼は大声でなければ起きない。
「なあ、一応、私は君の上司なんだが、そうやって上司を鼻提灯で迎えるのはいい加減やめにしないか?」
彼は、まあいいじゃないか。と言った。どっちの立場が上かこれではわからない。当の上司は諦めて、立ったまま―そう、この部屋に例のソファーは一人分しか無いのだ!―話を続けた。
「曙の明星が、君の力を欲している。彼の力となって欲しい」
「それは命令か?」
「いや、彼の頼みだよ。この世界で最も君が適任だ」
「そうか。まあいい。ヤツには借りもある。ひと肌脱いでやろう」
彼はそう言うと、上司と共にこの部屋を出て行った。
上司は思った。この世界の誰もが恐れるだろう曙の明星、唯一なる赤き竜に恐れを抱かないのは彼ぐらいなもんだろう、と。
実際、この怠惰の皇子はこの自分のにさえ、敬意をちいとも払おうとはしない。それが彼らしいところであり、彼らしくないところである。
先ほどまで、自室のソファーに腰掛けて居眠りをしていた彼は、今は壇上に立っている。見下ろす下には魔界の軍勢がひしめいている。それらは暁の明星ルシファーによって選ばれた、神の軍勢と戦う者たちである。
壇上の上に立った彼は、魔界全体に響かんと思うぐらいの大きく、そして威厳ある声を張り上げた。
「諸君、何も恐れることは無い。諸君らは曙の明星、唯一なる赤き竜の剣として選ばれたのだ!諸君だけではない、魔元帥たる私も諸君と共に戦うのだ。諸君らが恐れるものは何もない。偽の栄光で飾られた天界を叩きつぶすために、諸君らは真の輝ける存在と共に戦うのだ!立てよ諸君!」
大音声の演説が広場に響き渡る。そして、その演説以上に大きな歓声が沸き起こり、軍団の士気はいやおうにも高まり、弾けんばかりとなる。
演説台の裏で、その指導者たる曙の明星ルシファーは、演説者の上司である魔王ベルゼブブと共にいる。ルシファーは言う。
「・・・本当にヤツは凄いな。流石の私でも扇動に関しては彼には勝てる気がしない」
「それはそうでありましょう。彼は容姿、声質、そしてしゃべり方まで全てアジテーターとしての素質は完全でありましょう」
「何か、ヤツに礼をせねばならんな。強い軍団を編成することは私でもできるが、強い軍団を最強の軍団にできるのはヤツだけだ」
「それなら、ソファーを贈ると良いでしょう。あいつはすることがなければ、四六時中ソファーで居眠りをしております。この間など、半月ほどソファーから動かなかったらしいですからな」
「考えておこう」
舞台裏で二人が話してる間にも、偉大なる扇動者、魔元帥の演説は続く。が、もう誰も魔元帥の演説など聞こえなくなっていた。軍団があげる歓声にかき消されてしまっていた。魔元帥はその任務を果たしたのだ。
堕落の使徒、怠惰や堕落することにかけては勤勉な彼の名はベリアル。無価値の名を冠する偉大なる扇動者である。
そこには、立派なソファーが置いてあった。人間の王族が使うような立派なヤツだ。
そのソファーに深々と身を預ける男が居た。そいつは、鼻提灯をふくらませて、豪快に高いびきをかいている。
その顔は目鼻は整い、筋は通っていて、絶世の美男子といったところだ。彼に見つめられて頬を染めない女性などいないだろう。その美男子が鼻提灯と高いびきを友にソファーで居眠りしているのだ。なかなか想像できる情景ではない。
その部屋の扉がノックされる。
初めは普通のノックも次第に大きく激しく扉が揺れて壊れそうになりそうになるまでになる。そこまでなって、初めて男は起きた。扉を開けると彼の部下が居た。部下は言った。彼の上司が来ている、と。
彼は部下に上司をこの部屋に通すように命じると、再びソファーに深々と腰を下ろした。彼の上司がこの部屋に訪れるまでに、彼が再び夢の底へと落ちることは彼にとって難しくも何ともなかった。
「・・・相変わらずだな」
部屋に入ってきた上司はそう呟いた。
部屋は多くの装飾品で飾られ、机は大理石だ。そして、人間の王族でもなかなか使わないだろう、接客用の素晴らしいソファー。もっともこの男は自分のためにそのソファーをこの部屋に入れたんだろうがな。
そのソファーにはその男がまた高いびきをかいていた。
上司は、その男を大声で起こした。正確には、彼は大声でなければ起きない。
「なあ、一応、私は君の上司なんだが、そうやって上司を鼻提灯で迎えるのはいい加減やめにしないか?」
彼は、まあいいじゃないか。と言った。どっちの立場が上かこれではわからない。当の上司は諦めて、立ったまま―そう、この部屋に例のソファーは一人分しか無いのだ!―話を続けた。
「曙の明星が、君の力を欲している。彼の力となって欲しい」
「それは命令か?」
「いや、彼の頼みだよ。この世界で最も君が適任だ」
「そうか。まあいい。ヤツには借りもある。ひと肌脱いでやろう」
彼はそう言うと、上司と共にこの部屋を出て行った。
上司は思った。この世界の誰もが恐れるだろう曙の明星、唯一なる赤き竜に恐れを抱かないのは彼ぐらいなもんだろう、と。
実際、この怠惰の皇子はこの自分のにさえ、敬意をちいとも払おうとはしない。それが彼らしいところであり、彼らしくないところである。
先ほどまで、自室のソファーに腰掛けて居眠りをしていた彼は、今は壇上に立っている。見下ろす下には魔界の軍勢がひしめいている。それらは暁の明星ルシファーによって選ばれた、神の軍勢と戦う者たちである。
壇上の上に立った彼は、魔界全体に響かんと思うぐらいの大きく、そして威厳ある声を張り上げた。
「諸君、何も恐れることは無い。諸君らは曙の明星、唯一なる赤き竜の剣として選ばれたのだ!諸君だけではない、魔元帥たる私も諸君と共に戦うのだ。諸君らが恐れるものは何もない。偽の栄光で飾られた天界を叩きつぶすために、諸君らは真の輝ける存在と共に戦うのだ!立てよ諸君!」
大音声の演説が広場に響き渡る。そして、その演説以上に大きな歓声が沸き起こり、軍団の士気はいやおうにも高まり、弾けんばかりとなる。
演説台の裏で、その指導者たる曙の明星ルシファーは、演説者の上司である魔王ベルゼブブと共にいる。ルシファーは言う。
「・・・本当にヤツは凄いな。流石の私でも扇動に関しては彼には勝てる気がしない」
「それはそうでありましょう。彼は容姿、声質、そしてしゃべり方まで全てアジテーターとしての素質は完全でありましょう」
「何か、ヤツに礼をせねばならんな。強い軍団を編成することは私でもできるが、強い軍団を最強の軍団にできるのはヤツだけだ」
「それなら、ソファーを贈ると良いでしょう。あいつはすることがなければ、四六時中ソファーで居眠りをしております。この間など、半月ほどソファーから動かなかったらしいですからな」
「考えておこう」
舞台裏で二人が話してる間にも、偉大なる扇動者、魔元帥の演説は続く。が、もう誰も魔元帥の演説など聞こえなくなっていた。軍団があげる歓声にかき消されてしまっていた。魔元帥はその任務を果たしたのだ。
堕落の使徒、怠惰や堕落することにかけては勤勉な彼の名はベリアル。無価値の名を冠する偉大なる扇動者である。
夕輝と薄闇色の口紅
2004年11月7日 ShortStory【薄闇色の口紅】
丁度良いところに切り株があった。
彼女は、近くの木から柿の実をひとつ取って、切り株に腰を下ろした。既に日は落ち、辺りは薄暗闇に包まれている。
久しぶりに全力で暗い森を疾走した彼女は少し疲労を感じた。彼女の足は疾い。でも、彼女は自分の足はあまり好きではなかった。青銅で出来た脚と、ロバの脚。彼女の能力を以てすれば自由に姿形を変えられるとはいえ、彼女の本当の姿はそれしか無い。彼女は青銅もロバもあまり好きではなかった。
彼女は先ほど手にした柿を囓った。そして、すぐに投げ捨てた。
「・・・渋い」
彼女はワガママだった。
彼女の主食は人間だ。彼女が美しい女性に姿を変えれば、馬鹿な獲物はいくらでも集まった。気に入らないヤツなら、即座に喰らって殺した。気に入った相手には抱かせてやった。もちろん、その後殺して喰った。彼女は面食いだったのだが、顔良いヤツはなかなか捕まらないのが、悩みの種でもあった。
今日はちょっと勝手が違った。いつものように餌を探しに大きな街の近くまでやってきたのだが、人間の女性に姿を変える前に、一人の男に見つかってしまった。そして、誘われた。まだ、青銅とロバの脚のままだったのに。
彼女は驚き、思わず逃げた。力の限り疾走した。今まで、男を誘惑するのは星の数ほどあれば、向こうから誘われたのは初めてだった。それに好みのタイプだったし。
彼女は首を振って、自分の考えを打ち消した。そんな事は無い。どうでも良い。次にあったら喰らってやろう。
彼女はさっき投げ捨てた渋柿を拾って、また囓った。苦い味は嫌いじゃなかった。でも、甘い柿の方が好きだっただけだ。
自分の唇にそっと触れながら、彼女は口紅を取り出した。昔、誘惑した男から贈られたモノだ。姿を自由に変えられる彼女には必要ないモノだったけど、なぜか捨てずに取っておいた。
薄い紫色の口紅。彼女はそっと唇に闇夜の色を乗せる。
渋柿を再び投げ捨てて、彼女は立ち上がり走り出した。
近くに湖があったのを思い出したからだ。
豹のようなシルエットが薄闇色の森を駆けた。
青銅とロバの脚は彼女のしなやかな肉食獣のような脚力と速度を与える。木々が絡み合った森をスピードを落とすことなく走り抜ける彼女には不思議な美しさと魅力があった。それは普段の変身と魅了の魔力によるものでは無い、別の何か。
彼女の名はエンプーサ。人間を喰らう恐ろしい怪物であり、永遠の少女である。
丁度良いところに切り株があった。
彼女は、近くの木から柿の実をひとつ取って、切り株に腰を下ろした。既に日は落ち、辺りは薄暗闇に包まれている。
久しぶりに全力で暗い森を疾走した彼女は少し疲労を感じた。彼女の足は疾い。でも、彼女は自分の足はあまり好きではなかった。青銅で出来た脚と、ロバの脚。彼女の能力を以てすれば自由に姿形を変えられるとはいえ、彼女の本当の姿はそれしか無い。彼女は青銅もロバもあまり好きではなかった。
彼女は先ほど手にした柿を囓った。そして、すぐに投げ捨てた。
「・・・渋い」
彼女はワガママだった。
彼女の主食は人間だ。彼女が美しい女性に姿を変えれば、馬鹿な獲物はいくらでも集まった。気に入らないヤツなら、即座に喰らって殺した。気に入った相手には抱かせてやった。もちろん、その後殺して喰った。彼女は面食いだったのだが、顔良いヤツはなかなか捕まらないのが、悩みの種でもあった。
今日はちょっと勝手が違った。いつものように餌を探しに大きな街の近くまでやってきたのだが、人間の女性に姿を変える前に、一人の男に見つかってしまった。そして、誘われた。まだ、青銅とロバの脚のままだったのに。
彼女は驚き、思わず逃げた。力の限り疾走した。今まで、男を誘惑するのは星の数ほどあれば、向こうから誘われたのは初めてだった。それに好みのタイプだったし。
彼女は首を振って、自分の考えを打ち消した。そんな事は無い。どうでも良い。次にあったら喰らってやろう。
彼女はさっき投げ捨てた渋柿を拾って、また囓った。苦い味は嫌いじゃなかった。でも、甘い柿の方が好きだっただけだ。
自分の唇にそっと触れながら、彼女は口紅を取り出した。昔、誘惑した男から贈られたモノだ。姿を自由に変えられる彼女には必要ないモノだったけど、なぜか捨てずに取っておいた。
薄い紫色の口紅。彼女はそっと唇に闇夜の色を乗せる。
渋柿を再び投げ捨てて、彼女は立ち上がり走り出した。
近くに湖があったのを思い出したからだ。
豹のようなシルエットが薄闇色の森を駆けた。
青銅とロバの脚は彼女のしなやかな肉食獣のような脚力と速度を与える。木々が絡み合った森をスピードを落とすことなく走り抜ける彼女には不思議な美しさと魅力があった。それは普段の変身と魅了の魔力によるものでは無い、別の何か。
彼女の名はエンプーサ。人間を喰らう恐ろしい怪物であり、永遠の少女である。
夕輝と漆黒の脅威
2004年11月2日 ShortStory【漆黒の脅威】
ふしゅぅ
牙と牙の間から音無き吐息が漏れる。漆黒の闇が辺りを支配する深き森の奥深くに彼は居た。彼は彼を支配する馬鹿で悪意に満ち、敬える点などひとつも無い主人の元にいた。
彼の紅い目が鈍く輝き、それは闇をも見通す。彼は自分の主人より自分が賢いことを知っている。言葉をしゃべることはできない彼だが、その気になれば、テレパスによって意思の疎通など造作も無い。むしろ、言葉なぞ不要。音が無ければ、空気が振動しなければ意思の疎通が出来ないなど不便で仕方あるまい。彼は思う。
辺りを覆う黒いとばりにも負けぬ闇よりも暗い毛並みは美しく闇夜に映えた。彼の自慢でもある。
彼の主人は彼を彼の故郷から呼び出した。別に魔力に縛れているわけでもないし、彼に惹かれているわけでもない。もっとも、間抜けな主人はさも自分が偉大な魔力を持っているとでも勘違いしてよう。
彼は彼自身の意思でここに居る。彼の本職は番犬だ。彼の主人が自分の家の門を守らせるのは、彼の本職を知っていたからだろう。その点だけは彼は主人を誉めた。
最近は猟犬かなにかと間違われて忙しいことこの上なかったからだ。
彼は彼の主人の家を彼に言われて守っているわけだが、そんなことはどうでもよかった。呼び出されたときに、間抜けで哀れで矮小な男を食い殺してもよかったのだが、彼には任務があった。
彼はこの自信過剰な主人を利用することを思いついた。それに、この暗い森は彼にとって心地よい。光が無くても、完全な闇をも見通す目を持つ彼でも、光の差さないような魔窟はいささか退屈だ。炎を一切受け付けぬ体と短距離を瞬時に転移できる彼でも、溶岩に包まれた火山の底は暑苦しい。光に晒された塔の屋上などはもってのほかだ。
彼は思った。最近、とくにツイてない、と。
おまけに、本当の主人の館に忍び込んだ賊を取り逃がしてしまったのだ。主人は、忍び込んだ賊が彼の手におえない存在であることを感じていたから、彼を叱責したりはしなかった。
が、彼の番犬としてのプライドがそれを許さなかった。
彼は暗き森に響き渡る雄たけびをあげた。
彼が音を立てるのは、何年ぶりのことであろうか。
番犬としてのプライドが彼を死の猟犬に仕立て上げる。
地の果てまでも、地獄の底から追い続ける。
そう、彼は偉大なるヘルの館の番犬、ガルムである。
ふしゅぅ
牙と牙の間から音無き吐息が漏れる。漆黒の闇が辺りを支配する深き森の奥深くに彼は居た。彼は彼を支配する馬鹿で悪意に満ち、敬える点などひとつも無い主人の元にいた。
彼の紅い目が鈍く輝き、それは闇をも見通す。彼は自分の主人より自分が賢いことを知っている。言葉をしゃべることはできない彼だが、その気になれば、テレパスによって意思の疎通など造作も無い。むしろ、言葉なぞ不要。音が無ければ、空気が振動しなければ意思の疎通が出来ないなど不便で仕方あるまい。彼は思う。
辺りを覆う黒いとばりにも負けぬ闇よりも暗い毛並みは美しく闇夜に映えた。彼の自慢でもある。
彼の主人は彼を彼の故郷から呼び出した。別に魔力に縛れているわけでもないし、彼に惹かれているわけでもない。もっとも、間抜けな主人はさも自分が偉大な魔力を持っているとでも勘違いしてよう。
彼は彼自身の意思でここに居る。彼の本職は番犬だ。彼の主人が自分の家の門を守らせるのは、彼の本職を知っていたからだろう。その点だけは彼は主人を誉めた。
最近は猟犬かなにかと間違われて忙しいことこの上なかったからだ。
彼は彼の主人の家を彼に言われて守っているわけだが、そんなことはどうでもよかった。呼び出されたときに、間抜けで哀れで矮小な男を食い殺してもよかったのだが、彼には任務があった。
彼はこの自信過剰な主人を利用することを思いついた。それに、この暗い森は彼にとって心地よい。光が無くても、完全な闇をも見通す目を持つ彼でも、光の差さないような魔窟はいささか退屈だ。炎を一切受け付けぬ体と短距離を瞬時に転移できる彼でも、溶岩に包まれた火山の底は暑苦しい。光に晒された塔の屋上などはもってのほかだ。
彼は思った。最近、とくにツイてない、と。
おまけに、本当の主人の館に忍び込んだ賊を取り逃がしてしまったのだ。主人は、忍び込んだ賊が彼の手におえない存在であることを感じていたから、彼を叱責したりはしなかった。
が、彼の番犬としてのプライドがそれを許さなかった。
彼は暗き森に響き渡る雄たけびをあげた。
彼が音を立てるのは、何年ぶりのことであろうか。
番犬としてのプライドが彼を死の猟犬に仕立て上げる。
地の果てまでも、地獄の底から追い続ける。
そう、彼は偉大なるヘルの館の番犬、ガルムである。
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