たまには脊髄反射も悪くない。>挨拶

 ◆

某所の記事に対するお話。
元の記事がわからない人(が大半だろう)はここで引き返すか、
行間を三倍界王拳で読まないとわからないと思うよ。

【孫悟空はバトルマニアか】

イエスかノーかでいうとイエスだろう。
実際に、幼少時や強襲サイヤ人編やセル編など
戦闘時に悟空が楽しんでいるような描写は多い。

ベジータは当然として、孫悟飯でさえセル編では
バトルマニアのような描写があったわけで
設定からしてもサイヤ人は多かれ少なかれバトルマニアであろう。

アクマイト光線に言及があったが
悪の心を持たない=善の心を持たないという論に関しては
納得しかねる部分がある。

まず、善の定義づけを必要とする問題であるがこれは回避する。
一般常識から得られる善という存在においては
結局、自分以外のために頑張れるということ=善で差し支えないと思うのだが。

そう考えると、孫悟空の半生を振り返ると
アレは最初にドラゴンボールを自分以外のために使った存在なので
すなわち善と捉えられなくはないだろうかと思う。
それ以外にも、わりと自己犠牲の人で
多かれ少なかれ世界を救ってみたりしてるので
善の心が無いと断言に足るものが無いと思う。

【孫悟空は父親失格か】

答えはノーである。

この話題になると必ず出てくるのがセル編の
悟飯をセルにけしかける話。
さらにピッコロが悟空に対して父親失格の烙印を押す場面だろう。

悟飯がピッコロに対して父性を感じてるのは明白で
幼少時、数ヶ月であっても師として濃い時間を共有し
さらに、その後の戦いで命がけで助けられたわけで
子供の心に残らないわけがない。

一方で悟空は何をしたのか。

悟飯には伝わらなかっただけで
そのピッコロとの時間は悟空が悟飯のために死んだからに他ならない。
もっとも、悟飯のためだけではないともいえるが。
とにかく、悟空は直前の戦いで、悟飯を助けるために戦いに挑み死んだわけだ。

 ◆

セル編において、悟空は
完全体セルを打破できるのは、
地球人とサイヤ人の混血である自分の息子が
真の力を解放した状態のみと考えたのだろう。
精神と時の部屋で基礎修行をみっちりおこない下地を作ったあと
悟飯が、かつて自分がそうであったように怒りによって
戦闘中に力を解放するしかない。
悟空が楽観的すぎたというのは誰もが認める話である。

じゃあ、父親としてはとなったときに
精神と時の部屋を出てから、セルゲームまでのあいだ
悟空は家庭サービスに勤しむ良い父親ではなかっただろうか。

戦闘時は非情になれるのはバトルマニアのなせるわざかとも思うが
実際に、悟空はブウ編でも見られるように
戦闘で他人に苦労を強いることを良しとしない。
ブウ編の元気玉でベジータから限界まで吸えと言われるまで
その案をフリーザ編のときでさえ思いつきもしていない。
フリーザ編では他の星まで手を伸ばしたが
ナメック星人から極限まで吸い取ればもっと簡単であっただろう。

悟空が戦闘を強いたのは悟飯にだけである。
これは家族の信頼の証ととってもよいと思う。
悟空は悟飯を本当の意味で戦士として信頼していた。

ピッコロの言い分は正しい。
悟飯の気持ちを考えると悟空は非道の父親にも思える。
一方で悟空の気持ちを考えると、
今まで、悟空は自分の力だけで戦ってきた。
フリーザ編でさえ結局誰も頼れる物はなかった。
しかし、セル編において、やっと頼れる存在が生まれた。
楽観過ぎはしたが、その存在に甘えても仕方ないといえる。

界王様を犠牲にした点から見ても
悟空は政治家に向いてると言えるが
個を犠牲にして全体を救うことに抵抗がない。
ピッコロから言われるまで、
悟飯の気持ちを犠牲にすることで世界を救うという判断に迷いはなかっただろう。

ピッコロから言われて、自責の念に駆られる演出こそあったが
それは悟飯に対して申し訳なかったという謝罪の念であり
自身の行動に対する後悔などではなかったように思える。

【碇ゲンドウという人】

なにより、碇ゲンドウはシンジを信頼していた。
息子として、父親としての愛を持っていたのは疑いようもない。
きちんと、映画まで含めて全話見たのなら
いろんな疑問疑惑はあれども、ゲンドウのシンジへの愛は疑いようがない。
本編で自身が述べているように、接し方がわからなかった。
ただそれだけである。また、自身の目標のためにシンジを犠牲にしたため
さらに接し方に窮したのであろう。

父親失格かどうかはここでは深く追求しない。

よく、ゲンドウがシンジを道具扱いしていると思っている人が多いようだが、
それは違う。

ただ、ゲンドウにとって目標達成に重きが置かれているため
それのためにシンジが犠牲になった部分というはあるので。

しかし、ゲンドウがそう思っていたかどうかはわからないが
エヴァ初号機にユイが宿らせてあることを考えると
シンジがそれを扱うべきというのは間違ってないと思う。
それがユイにとっても歓迎すべきことなのだろう。
(勝手に再起動したり動いたりが良い証拠であろう)

両者の共通点は"非道"や"父親失格"ではなく

目的のために犠牲をいとわない。
計算高く、本当の意味で損得勘定が出来る。
家族を信頼している。

この三点である。

【孫悟飯はどう思っていたか】

一番重要かもしれない。
孫悟飯はピッコロに対して父性を感じているのは疑いもない。
孫悟飯にとって、ピッコロは師であり命の恩人であり
尊敬すべき対象である。

孫悟空が亀仙人の胴着を付けるのと同じ理由だ。
悟空にとって悟飯(爺)よりも亀仙人の方が尊敬する対象なのである。
しかし、悟空は爺の形見である四星球を非常に大事にするなど
十分な愛情を持っているといえる。

悟飯の場合はどうか。
ラディッツ編では父のために怒りによってボールから飛び出して応戦し、
またスーパーサイヤ人になった直後のピッコロをかついで帰還する前のシーンなど
父親に対しての愛情と信頼は十分に感じ取れる。

セル編では、戦いは好きじゃない。という言葉がキーになるが
これは本心だが、それは悟空に対して当てつけなどでは無く
傷つけることに対する嫌悪感からくるものであることが
16号との会話から推測できる。
悟飯がそれまで、戦闘に参加するシーンは
大抵、他の誰かを守るためである。
そして、そのためには力を惜しまない。

これは、まぎれもなく悟空と同じだ。
悟空も幼少期は全て、誰かのための戦いであった。
(もしくは、自衛のため)

セル編では、悟飯が父親を恨んでいるという描写は存在しない。
セル自爆から悟空を失ったことに対する後悔の念はあったが
その自責の念こと悟飯が悟空に対して父親への愛を持っていたからだろう。
(残念ながら、界王様についてはノータッチであった)

【結局、孫家は】

悟空は父親として格別素晴らしい人物ではないが
本人の出来る範囲で父親らしく振る舞おうとしている節はあるし
チチは全面的に悟空を信頼しているのがセル編でわかる。
悟飯は十分に家族愛をもっており、
家庭は円満であったと結論づけるに十分だと考える。

一方で、父は息子と世界の二択を迫られたときに
躊躇無く世界を取れるだろうその考え方を
非道を言うのなら、父は非道なのだろう。
息子にとって、その選択をされる時、息子が父をどう思うのかは計り知れないが、
そのとき、父は自分の息子に全幅の信頼を置いている。

孫家では、息子は息子で父の願いを叶え、その信頼に応じたわけで
息子は父に対して十分な信頼と愛情を持っていたと言っても良いと思う。
 
 
 
まぁ、いざ息子が本当に犠牲になったときには父はチチにぶっ殺されると思うけど。

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