常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションである。
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必要は発明の母といわれるように
もちろん、必要だから生まれたのである。
何に必要か。
それは、自己の正当化のための手段である。
人間は社会的に生きることを定められたときより
常に大多数でありたいと望むように生まれた。
大多数であり続けるための共通認識という虚構の存在を
我々は常識と呼ぶのである。
人間の社会といわれるものが適切に円滑に運営されるべき
生み出されたものを"法"あるいは"ルール"と呼ぶ。
しかし、これらは真実の意味において、人間社会のための存在であり
それは、常に個人の味方をするわけではない。
だから、個人の味方をするご都合主義的自由解釈が可能な
常識という存在が生まれ、我々はそれにすがるのである。
法は我々を束縛するという。それは、我々が変え得れぬものであるからだ。
だから、常識は我々に安心をもたらす。
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我々は時に、常識という言葉を盾にして
誰かに何かを要求する。無意識のうちに。
常識的に考えてという言葉で相手を説得しようとするだろう。
それは、法的に考えて、ルール的に考えてとならないのは
常識が自分にとって都合の良いもの、
…自身が常識を都合良く改竄しているからにすぎない。
本来、本当の意味で人間社会のことを考えるに
法的に何かを要求することは正当化されうるが
常識的に何かを要求することは正当化されてしかるべきなのだろうか。
常識とは個人のために都合良く造り替えられたものであり
我々の常識、いや私の常識とあなたの常識は似て異なるのである。
そして、それこそ常識なのである。
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常識とは便利な言葉だが、使い方に気をつけるべきだろうjk
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