夕輝と鸚鵡

2007年6月6日 日常+α
夕輝と鸚鵡
 
 
 
 
 

いろんな意味で最近イロイロあるから
書こうと思うネタがあっても書く段階になったら
頭から消えてることが多い気もするし、
それは昔からだったかもしれないための予告でありメモであれ。

 ◆

【価値観の相違を克するの巻き】

どんな人間にもそれぞれの価値観があり
それによって物事を評価する。

いわば、価値観とは、個人が有する
全てを引数に取れる評価関数であるわけだ。

当然、個々人によって、この評価関数の中身は異なるために
同じ引数に対する各人の"結果"は異なる。

引数は当然ひとつの数ではなく、
多次元のベクトルである。
わかりやすさのために、
この多次元ベクトルは
主要要素のabcに分解できるとすると、

一例として
f(x) = 2a+3b+c

というような関数が考えられる。

この"価値観"関数は最もbを重視するがcも考慮するという関数である。

さらに極端な例として

f(x) = a

などとbやcは全く考えない。
 
このような極端な価値観関数を持つ人間は
bやcに属する要素を無価値と考えている(むしろ無視)。

では、f1(x)=a+bとf2(x)=cの関数を持つ二人の人間が居たとして
互いは相容れることが可能か。
かなりの確率で否である。
これを価値観が異なると称するのである。

しかし、この場合、
f1の関数が

A) f1(x) = a + b
B) f1(x) = a + b + 0*c

のいずれかであるか考えた場合、
Aの場合は、互いの価値観を理解し合うことが出来ないが
Bの場合は、価値観は異なれどf1(x)はf2(x)の価値観に
ある程度の理解を示すことが出来る(賛同は出来ないだろうが)。

それは、Aがabの二変数の価値観変数であるのに対し
Bがabcの三変数の価値観関数であるからである。
 
f2(x) = c
であるとした場合に、c=f2(x)とし

f1(x) = a + b + 0*f2(x)

と書くことが出来る。
故に、f1(x)という価値観関数はf2(x)の関数と見ることが可能であり、
これがf1(x)がf2(x)の価値観に一定の理解を得られることの証明となる。
 
 
そろそろ飽きてきたので結論としては
自分の価値観関数の中で 
無視している部分の存在を理解することで
共栄は無理でも価値観の異なる他者に対して
一定の理解を示すことは可能である。

最後に 0*c の部分を付けるか付けないかは
個人の自由であるが。
 
 
 ◆

理解されるより理解する方が遙かに簡単なのだが、
理解することを怠っているなら
当然、理解されることは無いわけである。

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