義を見てせざるは勇無きなり。>挨拶
 
 
 
 
まあ、ほりえもんがどうとか誰がどうとか言うのはさておいて、
叩いても埃のでない会社なんて、
UFOみたいなモンだろ。
ありそうで無さそうでありそうだけど
ほとんどの人が見たことが無い。

法は守らなければならない。
ルールも守らなければならない。
法は最低限遵守すべき事項であり、
ルールは道義的に遵守すべき事項である。

いずれも、守らなくても基本的に死んだりしないので
その辺りはその人の性質にゆだねられる。

法を軽んじるということは、
約束を思いのほか軽んじるという性質を持っている。

また、見つからなければ犯罪ではない。
疑わしきは罰せず。
ということは法で決まっているわけだが、
結局は、人の中身を外から判断するには、
法律やルールに対する考え方というのは
かなり参考になる。

例えば、ルールと言っても千差万別ある。

何処までが常識的なルールであるか、
あるいは明文化されているか、
さらに、それはどの程度の母集団によって守られているか。

それによって遵守すべき度合いも変わってくるだろう。
ぶっちゃけケースバイケース。

ただし、ルールや法律の一部を
悪だと考える、あるいは時代にそぐわないと思うこともあるだろう。
しかし、その悪法を皆が守っているとしたならば、
それは法でありルールであるのだから
個々人の判断によって、守らなくても良いと判断するのはややおかしい。

この考え方ははっきり言ってかなり日本的な物の見方であると思うが、
夕輝は日本生まれの日本人なので仕方ない。それは日本人の誇りでもある。

何が言いたいかと言うと、
一番悪いのは犯罪者だと言うこと。
なお、別に誰かを名指しで批判しているわけではない。

ちょっと話が変わるが、ライブドアの株価が急落しているが、
それによって株主が損害を受けたという。

株主とは何だ?

その会社を信じて信頼して投資したのであれば、
自分の目が節穴であっただけだろう。
もちろん、投資であるのである程度の損害の賠償を求めるのは筋かもしれない。
だが、その前に株券に書いてある額面を確認した方が良い。

逆に儲けるためだけに株を握っているので有れば
それこそマネーゲームである。
マネーゲームにどっぷり浸かった人間が
投資という言葉を使うのはいかがなものかと思う。
マネーゲームが悪いと言っているのではなくて、
マネーゲームと投資は別物である。

ま、私は元々ライブドアやほりえもんは好きではなかった。
それは過去の追憶でも触れられている。
しかし、好きではないから悪だと決めつけるのはバカであるし、
彼が捕まったことを彼が嫌いだからという理由で喜ぶほど
他人の不幸で幸せには私はなれない。

手のひらを返すメディアなどを見ると吐き気もするが、
元々メディアというのはそういうものだ。

さらにいうとメディアは"視聴者の求めるモノ"を映す鏡だ。
人は自分より上の人間に見苦しいほどに嫉妬し
自分より下の人間を無意識に見下す。
それを拡大鏡のように映し出すのがテレビである。

性善説は全く信じていない。
しかし、生まれもって悪である人間など居ない。
そもそも善や悪というのは極めて抽象的で
どのようにでも解釈できる。
いわば、神の存在と同じように、
人間の生活を円滑にするための口実に過ぎない。

そもそも善とは何か。

他人のための献身か。その献身奉仕は本当に他人のためか
自分の自己満足のためでは無いのか。
他者から認められたい、あるいは褒められたいからの行動ではないのか。

悪とは何か。善と何処が違うのか。

話を戻すと、その概念を厳格化するのは極めて困難。
よって、法というものがある。
善か悪かわからないが、人間の行動を縛り
私たちに簡単に理解できるガイドラインを与えるために。

法というのはそんなもんだ。善とか悪とかそういうところとは
全く別のところに別の理由で存在するが故に、
私たちはそれを出来る限り守ろうとしなければならない。

誰も守らないのであれば、それは法の役目を果たさない。

私たちは人間全体を過信するが故に、
法は大まかかつ最低限でしか存在しない。
その曖昧な残りの部分は、道徳や節理などが占める。
社会的なルールもここに含まれるのだろう。

これらは人によって解釈も様々雑多であり、
誰も他者に強要できない。
なぜなら、それは法では無いからだ。曖昧だからだ。

もし、曖昧なものを理由にして他者を責めるという行為をするならば、
それは必ず第三者を不快にするだろう。

例えば、私が、私個人が勝手に定めたルール、
コンビニでおでんを買う場合は必ず大根を含めなければならない、
というものを作り、それを守らなかった誰かを激しく叱責したとしたら
私は非常識、あるいは異常者と烙印を押されるのだろう。
もちろん、私は大根は好きだが、そんなことは誰にも強要しない。

極端すぎる例ではあるが、結局は同じ所だ。
もし、本当に守らなくてはならないことは法で決まっている。
法で決まっていないことは守る必要は無いのだ。
それより外の曖昧な部分は単に人間と人間の付き合いに於いて、
個々人間で影響する部分に過ぎない。それが些細な事だとは言わない。

まだ、この記事を書いている時点で有罪は確定していないが、
ほりえもんの有罪はほぼ確定的だ。検察が動いているのだから。
ということは彼は犯罪者である。

私は犯罪者が嫌いである。
元々彼の事は好きではなかったわけだが。

しかし、彼の考え方を否定することはない。
彼は彼なりの道を歩んでいるのだ。

私とは全く別の道であろうと、正反対であろうと
理解しがたい道であろうと、私個人内の道義な反する物であろうと

それを否定することはしない。
その道は彼にとっては正義なのだ。
その考え方は尊重されるべきだ。
それが合法であるかぎりだが。

法を違反したので罰せられるのは当然だ。
彼の考え方自体が法に反していないので有れば、
手順が間違ってだけなのならば、
彼の考え方を非難するのは、素晴らしい事とは言えないだろう。
 
好きになれないものを頭ごなしに否定することは子供でもできる。
ある程度の成熟した者であるならば、
それを理解して、あるいは理解しようとしてから
判断すべきだろう。それが大人であることの証明では無かろうか。
 
ワイドショーなどでよく見る光景である
コメンテーターの意見の多くが薄っぺらく感じるのは、
理解しようという姿勢が足らないからであろう。
少なくとも私にはそう感じることが多い。 

多くのニュース番組は数字を取るために運営されているので
真実を伝えるわけではなく、ただおもしろおかしければ良いと
制作側の多くはそう考えている(のだろう)。
そして、私たちもニュースやマスメディアに多くを求めてはいない。
何が起こっているかがある程度わかればそれでいい。
どのみち、それを知った上で私たちはそれを考え理解しようとするわけだ。
ただ聞き流すだけなら、真実かそうでないかはあまり違いが無い。
逆に理解しようとするならば、真実で無くても
それをある程度は見抜ける感じるようになれるだろう。

聞き流すだけならば誰でも出来るわけだが、
私は少し前に自分で書いたことを忘れてはいない。
私は他者が子供であるままでもかまわないと思う。
子供であることは決して悪いこととは言えない。
他者が理解しようとせず流されるままであっても、
それを理由に叱責しようとはあまり思わない。
相手によっては進言はするかもしれない。
結局は、最終的にはそういう人と
長いお付き合いをしたいとは感じないから
関わり合いが無くなっていくだけだ。

人は気の合うものと付き合う。
それが楽だからだ。
気が合うとはどういうことか。
それは、同じ価値観、あるいはよく似た価値観を
持っているということだ。
この価値観こそがルールなのだ。
法ではない曖昧な部分であるルール、
その中で共通項目が多いと人は安心する。
相手の行動が予測でき、自分と同じであるからだ。

子供は知らない相手でも年が近いと簡単に仲良くなる。
年齢が低いほどその傾向は顕著だ。
それは価値観が似ているということに他ならない。
彼らにとっては楽しい事が最優先事項だというルールがあり、
子供は大抵そのルールに忠実だ。
同じルールを遵守する者同士行動を共にするのは納得できる。

しかし、年齢を重ねる毎に個々人が自己に内包するルール価値観は
複雑化する。そして、それは安易には変わらない。

そうやって大人の世界は複雑怪奇に充ち満ちていくのである。
 
 
正解など何処にも無い。善など何処にもない。
故に間違いも無く、悪も無い。
明確に有るのは、違法合法だけである。

今回、ホリエモンが逮捕されたことに関しては、
あまり何も感じていない。ホリエモン個人の存在など、
どうでもいいと言ってしまえばそれまでだ。

ただ、彼は自分の考えを主張し、その道に忠実であったということは
私はホリエモンはあまり好きではないが、
私が彼に好印象を抱く唯一の部分ではある。

そういう意味では、彼はルールを守っていたわけだ。

彼を擁護するつもりは無い。
犯罪者は犯罪者だ。その前科を背負って一生、生きていくと良いだろう。
人生に付いた傷だ。歴史に残る人物となってもその人生は既に傷モノだ。
なんと残念なことか。消えない傷、それこそが罪である。

しかし、それは彼の考え方を否定するものではない。
彼の考えを彼の道を合法的に進むことが可能な限り、
その道は他人の手でふさがれるべきではないと私は考える。

ルールとは、道を閉ざすモノではなく、
道のガードレールのようなモノであるべきなのだ。
法律とはまた違う存在である。

私が抱いているルールは此処では話さない。
私に限らず、全ての人が持つそれぞれのルールは道義は
複雑かつ自己でも把握しきれないのだから。

一つだけ言えるとしたら、
他者を尊重せよ。それは自己を尊重することである。

私はそんなルールをできる限り守って生きていきたい。

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