【一個体にサドとマゾは共存し得るのか?人間を明確にサドとマゾに分類することは、果たして可能なのか】
これは非常に難しい。
まず、最初にサドとマゾとは何かという定義から入らねばならぬ。
言葉額面通りの意味は辞書でも引けば載っているだろうが、
サディストとは、"他者に苦痛を与えて快楽を得る人"
もしくは、"他者を支配制圧することに歓びを感じる人"であろうか。
マゾヒストは"苦痛を与えられて快楽を得る人"、
"他者から支配を受けることに歓びを感じる人"辺りが妥当か。
しかし、私も含めて多くの人が定義を深く考えずに
これらの用語を使っているだろうと思う。
なんとなくな感じでそれっぽいからという理由で
或いは、簡単に貼れるレッテルとして、これらを使う。
本来から言うとサディストには、
もっと容赦ない"残酷さ"が必要だ。
この世には拷問というものが存在し、
それを何よりも好む人種が居る。
そういう人達こそサディストである。
が、我々がサディストと使う場合は、
そこまでサディスティックな人間を指して言うわけでなく
単に、気が強く、相手より上位に立っていて、
ちょっと暴力的だとか、そんな感じで使うのだろうと思うし、
マゾヒストに関してもどうようだ。
本来のマゾといえば、全ての苦痛に快楽を見いだす類の人であり、
Mだけど痛いのはちょっとダメ、だとか汚いのはゴメンだとか
そういうのはMであっても本来のマゾヒストとはかけ離れている。
しかし、そういったちょっとした被虐的要素に歓びを感じる人を
我々は簡単にマゾだと呼ぶわけだ。
言葉本来の定義からするとかけ離れている感じもあるが、
そもそも言葉という存在が円滑なコミュニケーションを
目的としていることを考えれば、
使っている両者が意思疎通できているのであれば、
言葉本来の定義など些細なことに過ぎない。
なお、多くの人が勘違いしているが、SMプレイというのは
単なるロールプレイングなプレイであって
S役が実際にサディストである必要は必ずしも無い。
あれは単なるゲームだと考えるべきだし、
そのように取り扱うのが宜しい。
SとMは、それぞれのプレイのスキルがあれば
別に誰だってできるわけだ。
話を戻すと一個体にサドとマゾが共存するのは、
私の考えから結論を急ぐと、可能だ。
当然、世の中には、"他者に苦痛を与えることで快楽を得るが、
自分が与えられても気持ちいい"という人は少なからず存在する。
また、マゾ的な被虐による快楽を知っているならば、
逆もまた真という過程を辿る人も決して少なくはなかろう。
SMプレイでは、MからSに転身する人はかなり多い。
Sが自分に合ったMを見つけるのは比較的簡単だが
Mが自分に合ったSを見つけるのは困難だからだ。
MからSに転身した人は多くのMにとって良いSになろうとする。
もちろん、SMはサディストとマゾヒストの関係のうち
快楽的な部分だけを取り出そうとした縮図でもあるからして
これをサドマゾの関係に当てはめて考えるのはさほど的はずれなことではない。
一個体にそれぞれの属性が共存できるので
一個体をいずれかに分類するのはあまり現実的なことでは無い。
SとMは内容は逆ではあるが、
酸性とアルカリ性のように
混じれば消えるようなものではないということだ。
私が人間全体を指して人間はマゾっすね。と言うのは、
人間が本質的に"被支配"を望むからである。
時間、カネ他にも、人間の創り出した風習というのは
人間を支配するものが多い。
我々は、直接自分たち自身を支配するのではなく、
別の何かを創り出して、間接的に支配されようとする傾向にある。
間接的にというところがミソで、
我々の大多数は何かを支配しようとはあまり考えない。
ましてや、苦痛を与えようなどと微塵にも考えない。
だから直接自分自身を縛ることは望むところではない。
他の何かに頼って、支配されることを望む。
だから、マゾなのだ。
結婚、宗教、法律、あるいは社会の存在そのものが
我々を拘束し、縛り、そして、支配する。
気が付けばモルドールの暗い闇に引き留められる。
まあ、これは別の物語だが(指輪物語参照)、
そんな感じで我々は本質的に支配されることを望む。
そもそもSMもそこから生まれてきている。
最初にMが居て、だからSが必要なのだ。
んじゃ、どうしてマゾなのだろうか。
それは簡単だ。
我々は両親から生まれ、育まれる。
それは、両親に支配されている。
我々はその事に思春期を迎えるまでは
少なくとも不満を持たない。
支配されることの安心感を知っているからだ。
支配されるということは、自分の心配だけで良いということ。
他を心配する必要は全くない。
時には自身の心配さえ不要となる。
しかし、支配する側は他にもたくさんの心配事を抱えねばならない。
だから、人は支配されることを望む。
愛する両親に支配され続けるのがもっとも望ましいことかもしれないが、
やがて避けられぬ別れが来る。
道徳的にも、両親にばかり苦労を押しつけるわけにもいかない。
それらは、我々の独立を促す。
そして、両親では無く、金や時間や法律や社会全体の支配を受け入れる。
新たな支配者を得て、我々は無意識に安堵し、それが生きる活力となる。
支配されない生き方に我々は憧れを抱くが
それを実践する人間は極々限られている。
自由がもたらす不自由さを我々人間の多くは感じ取っている。
だから、社会が存在し、法律が存在するのだ。
我々を縛り、拘束し、支配し、
そして、多くの心配から解放されるように。
マゾヒストは"苦痛を与えられて快楽を得る人"、
"他者から支配を受けることに歓びを感じる人"だと定義した。
支配を受けることに歓びを感じるのだから、
人間はマゾヒストなのだ。
私が人間ってマゾだよねぇというのはそういうことだ。
ついでに"自ら苦痛を与えられようとする"という皮肉もあるがね。
最後に少し言うと、
SMは気持ちいいぞ。
だけど、それは互いの協力から得られるものであって
互いが自分自身の快楽しか追わなければ、
決して良い結果にはならない。
コミュニケーション能力を育むにはもってこいの教材だ。
最近、過剰な性教育で何かと話題だが
ぜひ、小学校でも実践していって頂きたい。
これは非常に難しい。
まず、最初にサドとマゾとは何かという定義から入らねばならぬ。
言葉額面通りの意味は辞書でも引けば載っているだろうが、
サディストとは、"他者に苦痛を与えて快楽を得る人"
もしくは、"他者を支配制圧することに歓びを感じる人"であろうか。
マゾヒストは"苦痛を与えられて快楽を得る人"、
"他者から支配を受けることに歓びを感じる人"辺りが妥当か。
しかし、私も含めて多くの人が定義を深く考えずに
これらの用語を使っているだろうと思う。
なんとなくな感じでそれっぽいからという理由で
或いは、簡単に貼れるレッテルとして、これらを使う。
本来から言うとサディストには、
もっと容赦ない"残酷さ"が必要だ。
この世には拷問というものが存在し、
それを何よりも好む人種が居る。
そういう人達こそサディストである。
が、我々がサディストと使う場合は、
そこまでサディスティックな人間を指して言うわけでなく
単に、気が強く、相手より上位に立っていて、
ちょっと暴力的だとか、そんな感じで使うのだろうと思うし、
マゾヒストに関してもどうようだ。
本来のマゾといえば、全ての苦痛に快楽を見いだす類の人であり、
Mだけど痛いのはちょっとダメ、だとか汚いのはゴメンだとか
そういうのはMであっても本来のマゾヒストとはかけ離れている。
しかし、そういったちょっとした被虐的要素に歓びを感じる人を
我々は簡単にマゾだと呼ぶわけだ。
言葉本来の定義からするとかけ離れている感じもあるが、
そもそも言葉という存在が円滑なコミュニケーションを
目的としていることを考えれば、
使っている両者が意思疎通できているのであれば、
言葉本来の定義など些細なことに過ぎない。
なお、多くの人が勘違いしているが、SMプレイというのは
単なるロールプレイングなプレイであって
S役が実際にサディストである必要は必ずしも無い。
あれは単なるゲームだと考えるべきだし、
そのように取り扱うのが宜しい。
SとMは、それぞれのプレイのスキルがあれば
別に誰だってできるわけだ。
話を戻すと一個体にサドとマゾが共存するのは、
私の考えから結論を急ぐと、可能だ。
当然、世の中には、"他者に苦痛を与えることで快楽を得るが、
自分が与えられても気持ちいい"という人は少なからず存在する。
また、マゾ的な被虐による快楽を知っているならば、
逆もまた真という過程を辿る人も決して少なくはなかろう。
SMプレイでは、MからSに転身する人はかなり多い。
Sが自分に合ったMを見つけるのは比較的簡単だが
Mが自分に合ったSを見つけるのは困難だからだ。
MからSに転身した人は多くのMにとって良いSになろうとする。
もちろん、SMはサディストとマゾヒストの関係のうち
快楽的な部分だけを取り出そうとした縮図でもあるからして
これをサドマゾの関係に当てはめて考えるのはさほど的はずれなことではない。
一個体にそれぞれの属性が共存できるので
一個体をいずれかに分類するのはあまり現実的なことでは無い。
SとMは内容は逆ではあるが、
酸性とアルカリ性のように
混じれば消えるようなものではないということだ。
私が人間全体を指して人間はマゾっすね。と言うのは、
人間が本質的に"被支配"を望むからである。
時間、カネ他にも、人間の創り出した風習というのは
人間を支配するものが多い。
我々は、直接自分たち自身を支配するのではなく、
別の何かを創り出して、間接的に支配されようとする傾向にある。
間接的にというところがミソで、
我々の大多数は何かを支配しようとはあまり考えない。
ましてや、苦痛を与えようなどと微塵にも考えない。
だから直接自分自身を縛ることは望むところではない。
他の何かに頼って、支配されることを望む。
だから、マゾなのだ。
結婚、宗教、法律、あるいは社会の存在そのものが
我々を拘束し、縛り、そして、支配する。
気が付けばモルドールの暗い闇に引き留められる。
まあ、これは別の物語だが(指輪物語参照)、
そんな感じで我々は本質的に支配されることを望む。
そもそもSMもそこから生まれてきている。
最初にMが居て、だからSが必要なのだ。
んじゃ、どうしてマゾなのだろうか。
それは簡単だ。
我々は両親から生まれ、育まれる。
それは、両親に支配されている。
我々はその事に思春期を迎えるまでは
少なくとも不満を持たない。
支配されることの安心感を知っているからだ。
支配されるということは、自分の心配だけで良いということ。
他を心配する必要は全くない。
時には自身の心配さえ不要となる。
しかし、支配する側は他にもたくさんの心配事を抱えねばならない。
だから、人は支配されることを望む。
愛する両親に支配され続けるのがもっとも望ましいことかもしれないが、
やがて避けられぬ別れが来る。
道徳的にも、両親にばかり苦労を押しつけるわけにもいかない。
それらは、我々の独立を促す。
そして、両親では無く、金や時間や法律や社会全体の支配を受け入れる。
新たな支配者を得て、我々は無意識に安堵し、それが生きる活力となる。
支配されない生き方に我々は憧れを抱くが
それを実践する人間は極々限られている。
自由がもたらす不自由さを我々人間の多くは感じ取っている。
だから、社会が存在し、法律が存在するのだ。
我々を縛り、拘束し、支配し、
そして、多くの心配から解放されるように。
マゾヒストは"苦痛を与えられて快楽を得る人"、
"他者から支配を受けることに歓びを感じる人"だと定義した。
支配を受けることに歓びを感じるのだから、
人間はマゾヒストなのだ。
私が人間ってマゾだよねぇというのはそういうことだ。
ついでに"自ら苦痛を与えられようとする"という皮肉もあるがね。
最後に少し言うと、
SMは気持ちいいぞ。
だけど、それは互いの協力から得られるものであって
互いが自分自身の快楽しか追わなければ、
決して良い結果にはならない。
コミュニケーション能力を育むにはもってこいの教材だ。
最近、過剰な性教育で何かと話題だが
ぜひ、小学校でも実践していって頂きたい。
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