階段を駆け上がっていた。
 自分の左手が引っ張られていた。
 左手の先を見ると、髪の長い女性を見つけた。
 女性は振り返ると、私に向かって片目を瞑った。

 その女性は妲恵と名乗った。

 妲恵は、先の見えぬほど長い階段を駆け足で私の手を引っ張っていった。果てしなく長い距離とも、限りなく短い距離とも感じる距離を二人は走り抜けた。やがて、階段の先に光が溢れた。

 妲恵はまぶしさに脚が止まった私を強引に引っ張り上げた。光が私の両の目を直撃し、その光景が眼前に広がった。

 そこは小高い丘の上であった。新緑の色が広がる庭園には、様々な物が並んでいる。ブランコみたいな子供の遊具から、満開の桜の元には白木で出来た椅子とカップが並んだ机があり、清流のせせらぎが流れ、それには小さな橋が架かっている。
 何処彼処に、人が居て、皆笑顔であり、楽しんでいるように見えた。辺りは涼しさを感じるが決して寒くはなく、人々の大半は薄着である。よく見ると、妲恵もかなりの薄着であった。下着がうっすら透けて見えたが、そのような些細なことはどうでも良いことのように思われた。
 一方、自分は濃い緑色と青色の中間の色をしたコートのような分厚い服を着ていた。そのことに気が付くと、急に暑く感じた。

「脱いだらいいわ、ここの木にでも掛けておけばいいよ」

 妲恵に言われるままに、そのコートを脱いだ。コートの下はシャツとジーンズであり、ここの気候にはピッタリの薄着であった。コートは妲恵が近くの木に掛けた。

「さあ、一緒に楽しみましょう!」

 小高い丘からはロープウェイみたいなゴンドラが正面の別の丘の上に続いていた。これに乗れば、この綺麗な世界を観賞しながら、移動できるようであった。妲恵は私を引っ張り、それに乗ろうと言い出した。私も依存はなかった。それほど、ここの世界は綺麗であった。右を見れば地平線には、遠浅の海のようなものが広がり、高く輝く太陽の光を反射してきらきらと輝いていたし、左を見れば、高くそびえる山々は幽谷深山の如く、別の芸術心に何かを訴えかける力があった。
 しかし、私はロープウェイに乗る直前に自分が高所恐怖症であることを思い出した。いくら景色が良くても、高いところでは脚が竦んでしまうかもしれない。それでは肝心の景色も観賞できないだろう。
 私は妲恵に歩いて丘を下りたいと申し出た。
 妲恵はちょっと悲しそうな顔をしたが、快く応じてくれた。そのまま、私の腕を引っ張ってあれやこれやと、まるでお節介な観光ガイドのように説明を挟みながら、嵐のように走っていった。
 時折、道行く人が私たちの方を見て、手を振って挨拶してくれた。まあ、私ではなく、妲恵と知り合いなのであろう。私には面識はない人たちばかりであった。
 やがて、大きな桜の前に着いた。彼女はこぼれんばかりの笑顔で、桜を紹介した。妲恵が言うには、彼女が此処で一番好きな桜なのだそうだ。確かに、今まで見たどのような桜よりも優雅で気品があり、満開ではなく少し葉が見え、花が舞い散っている。絶世の桜であった。

「ちょっと休憩しようか?」

 妲恵はそう良いながら、手近にあった白い長椅子に腰掛けた。私もその隣に腰掛けた。
 そこで気が付いたのだが、長い距離を半ば走るような速度で移動したにもかかわらず、疲労を全く感じていなかった。階段を駆け上がる時も同じだったことにも気が付いた。私は決して体を動かすことは得意ではなかったのだが。

「どうしたの?何を考えているの?」

 妲恵がそう言いながら、いきなり抱きついてきた。突然のことにやや動揺はしたものの、決して悪い気にはならなかった。世の中広くても、薄着の女性に抱きつかれて怒り出す男性は少なかろう。それに、この妲恵という女性。見れば見るほど、美人でもあった。長い黒髪は艶やかにして、まるで絹糸のようであり、体から伸びる四肢はしなやかでその肌は玉のように美しく、陽光の中に輝いていた。
 ましてや、桜吹雪の舞う中で、望んでも望み切れぬシチュエーションだ。思わず、どぎまぎして顔を赤くさせても罪には問われまい。そんな私の反応をからかうかのように、妲恵は

「かわいーー」

と私に言うのだった。
 その後、彼女は立ち上がると、私を椅子に座らせたまま、すぐ近くにあった赤いレンガでできた家に入った。そして、カップを2つ載せた盆を持って帰ってきた。カップには温かい紅茶がなみなみと注がれていた。
 妲恵はひとつを私に差し出すと、もう一つは自分の口に運んだ。桃色の唇が白いカップに触れる。その様子をじっと眺めていたい衝動に駆られたが、私はその誘惑に打ち勝ち、自分のカップを口に運ぶとぼんやりと風景を眺めた。広い庭園には、色とりどりの花が咲き乱れ、人々はめいめいに自由に楽しそうに過ごしてはいた。
 カップの中の紅茶は、猫舌の私にとっては少し熱かった。

「ごめん、ちょっと熱すぎた?」

 私の心を読んだかのような妲恵の問に、私は首を振って答えた。美味しいよ、と。
事実、濃すぎず薄すぎず苦すぎず甘すぎずのとても美味しい紅茶ではあった。

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