[1]からお読みください。
 
 
 
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 刹那にも感じる短い時間を過ごし、カップを空にすると、遠くから音楽が聞こえてきた。ピアノの柔らかい響きにバイオリンの優雅な音色が混じっていた。
 妲恵は再び私の手を取ると

「一緒に踊ろ」

 そう言って軽やかにステップを踏み出した。私は踊りなんて踊ったことも無いので丁重に断ろうとしたが、妲恵はそれを許してはくれないようだ。強引に私の腕を引っ張って、踊りの輪の中へと連れて行った。
 私は美女に手を引かれ、まんざらではなかった。彼女の華奢で白い手が私を引いた。長い髪が風に靡き、甘い匂いが私を包む。彼女の弾む体は降り注ぐ光の下では天女のようにも見えた。その背に白い翼があれば、誰もが彼女を天使を崇めたであろう。

「さあ、」

 結局、彼女に連れられるまま、たいした抵抗もすることなく、踊りの輪に加わってしまった。しかし、踊りの経験など無い私のことだ。回りとのリズムに合わせることもままならないままに、脚がもつれて盛大に尻餅をついてしまった。回りの人に迷惑こそ掛からなかったが、気恥ずかしい気持ちで一杯になった。

「ふふ、おかしな人ね。さあ立って」

 妲恵に手を引かれ、再び立ち上がった時に少しおかしな事に気が付いた。回りの人は何も気づいていないのか、こちらには目も向けず踊りを続けている。皆、素晴らしいステップで軽やかに舞い続けている。
 私は妲恵の手を逆に引っ張り、輪を抜け出した。

「ちょっ、ちょっとどうしたのよ」

 困惑する妲恵が私に引きずられるように、先ほどの桜の下に戻る。誰かが片づけたのか椅子の上に既に先ほどのカップは残っていない。
 椅子に腰掛けずに、私は妲恵に一方的に別れを告げて、海の方角へ向かって走り出した。彼女ほどの美女に別れを告げるのはやや心苦しいものもあった。もはや、こんなチャンスは二度と無いだろう。そう二度と無いだろう。いや、一度たりとも無くて可笑しくないほどの幸運とも言えた。

「待って、ねぇ待ってよ」

 彼女が追いかけてきた。私の方が少し彼女より足が速かったようで、次第に少しずつ離れていった。遠浅の海辺についた、足下は小さな丸い石で覆われていた。砂地の海岸ではなかった。しかし、もうそのような事はどうでも良かった。この海とも思える遠浅の水辺を私は走っていった。海岸線を越え、数百歩ほどの距離で、妲恵は追いかけるのを諦めたようだ。両の腕を膝で支え、肩を上下させている彼女が遠目に見えた。

「あーあ、結構好みだったんだけどなァ」

 妲恵の声が微かに届いた。もはやどうでもよかった。私は走り続けた。どのくらいの距離かもわからない距離を走り続けた。相変わらず、水位は膝下のままだった。よく見れば水底には、宝石のようなきらきら光るものが散らばっていた。しかし、私は目もくれず走った。

 やがて、私は海を渡りきった。渡りきった小石の浜辺に一人の男性が立っていた。私は男性の元に駆けていった。
 男性は言った。

「もう二度と此処に戻ることは許されない。それでも行くか」

 私はその問に答えた。
 本当の事を言うと妲恵の事はちょっと心残りではあった。

 そして、私の意識は途絶えた。
 
 
 
 
 
 
 誰かの声がする。複数の声。怒号も混じる。何かの音がする。機械音のような甲高い音がする。息苦しい。体が動かない。目を開けた。眩しい。口を開けた。声が微かに出た。

「意識戻りました!」
「なんと、奇蹟じゃ」
「心肺停止からもう三十分近くが経過しています」
「脈拍安定しています」

・・・

 声が響いている。眩しくて相変わらず何も見えない。うっすらと何かを思い出した。もう二度とできない。ああ、明日ゴミ出しの日だ。忘れないようにしないと。もう睡眠薬も必要ないから、一緒に捨ててしまおう。微かに回りの風景が見えてきた。そこには妲恵は居なかったが、私は居た。
 

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