夕輝と愚痴

2005年2月4日
【愚痴】

見るな危険とか前書きに書いたら、
じゃあ載せるなとか言われそうなのだが、
まあ気にするな。読まない方が吉。
だから、わざと読みにくくして読ませないようにしてみるテスト。

そもそも、私は後先考えずに行動することが嫌いです。その場の成り行きとか、意地とかで行き当たりばったりな行動をすること、あるいは、行動する人が嫌いです。もちろん、世の中には、そうやって即断して行動しなければならないときもあるのはわかってます。でも、それでも私はそうやって行動するのは嫌いです。何をするでも、最低限の準備と今後の展開を考えたうえで行動したいのです。だから、他人のそういう行動、特に、考える時間準備する時間があるにもかかわらず、行き当たりだったりな行動をする人を見るとムカっときます。また、物事を遠回しに言う人も嫌いです。特に、一対一の状況下では、遠回しな表現を使う意味はほとんど無いと思います。上下関係があるならともかくですが、そうでない場合は、遠回りな表現を使うことは会話の目的を満たしていない。同時に思うのは、文章というのは、情報量が少なすぎます。せめて電話なり、音声を使うべきです。私にとって文章とはそれ自体、遠回りな表現に当たります。そういう理由でメールは嫌いです。別に普通の会話挨拶伝達なら問題はないですが、そうでない重要なことにメールを使う事は嫌いです。少し話を巻き戻しますが、行き当たりばったりな行動をする人はいったい何を考えているのでしょうか。何も考えていないだとは思いますが、そう行動することで何が得られるのでしょうか。状況は悪化するだけです。偶々、良い方向に向かうやもしれません。が、それは賭博と何一つ変わりないでしょう。なぜ、頭というもの知恵というものがありながら、考えることをせず、一時の感情に流されますか?私には理解できません。それは私が感情に流されることは無いということではありません。私にもそういうことはありますし、ありました。私は可能な限り引く事を学びました。時には引けぬこともありますが、世の中には、私の人生にはそれほど重大なことは多くはありません。少し考えればわかることを考えようとしないのは愚か者のすることだと思います。同時に、その熟考を伴わない軽はずみな行動によって被害を受けるのが本人だけならかまいません。しかし、そればっかりとはいきません。昔と違って、今の私はさほど喧嘩をしません。でも、私は仏では無いのです。時には喧嘩をふっかけることもあるのです。腕力には自信はありませんが、腕力の絡まない喧嘩なら素人に負ける気はしません。私は目の前で身勝手で軽はずみな行動を許すことができないのです。その行動で他者が被害を受けうる場合には特に。話は変わるが、私が嫌いな事は他にもある。それは性差である。私は自分がいくつかの特殊な欲求願望を持っている事を知っている。それで悩んだこともあったが、最終的に私は、自分と同じ思いを持っている人間は少なく無いことを知ったので、その点では自分を受け入れることができた。当時、三途の河原の散歩から帰還できた理由のひとつでもある。それはさておき、私は性差を嫌う。それは性差別とかのレベルでは無い。私はこの世の中のありとあらゆる場所から、性別による区別が失われれば良いと本気で思っている。もう少し技術が進めば、男性も子を産むことができるようになろう。整形技術も発展し、女性と男性の差は無くなろうとしている。その区別をつける必要は無いだろう。私は本気でそう思ってる。最近、電車に女性専用車両が出来たが、あれを見ると反吐が出る。もちろん、社会的には仕方のないことではあるのだろう。それは理解できるがね。私にはそんなふうに嫌いなことがいっぱいある。理由は薄々わかっている。私は人間が嫌いだからだ。もし、私にその力があれば、私は人類の絶滅さえ望むかもしれないほどに。でも、実は今はそうでもない。私の最も不安定な時期に、私はそう思っていたし、だから自分も嫌いだった。人間だからだ。私が死なずに済んだのは、人間全てが捨てたもんじゃないってことを教えてくれた人がいるからだ。その人には感謝している。本当に感謝している。その人が居なければ、自分は此処にはいなかったかもしれないのだから。私は人間であり、特殊な欲求願望を持っている自分を長い旅のすえ肯定することが出来た。だから、此処に残ることが出来た。まあ、話の筋が思い切りずれたが気にせず続けると、というか、自分のやりたいようにするのが一番なんだ。それが生きていくための私の答えなのかもしれない。で、私は考えずに行動する人が嫌いなわけだが、別に普段からそうではない。日常生活でいちいち考えていたら息も詰まるだろうから。でも、考えなければならない時は絶対にある。そのときに考えない人、考えないことが嫌いなんだ。ああ、そうだ。まだ嫌いな事はある。「頑張れ」という言葉が嫌いだ。私はその言葉を一対一の状況では使わない。スポーツなどで応援のために使う「頑張れ」は別に問題無い。そうでない「頑張れ」はダメだ。嫌いだ。そもそも、誰も皆生きていくのに頑張ってるんだ。頑張ってないヤツなんか居ない。なのに、さらに頑張る事を要求するとはなんたることか。ちょっと知ってる人は知ってるとは思うが、鬱病の気がある人間に「頑張れ」は禁句である。そうでなくても、癌などの闘病中に人間や身体的な障害者に「頑張れ」などと、よく言えるモノだと思う。他人事であることがまるわかりである。同じく、そういう場での「気にしない」とか「大丈夫」とかの気休めも嫌いだ。お前に何がわかるのか。言われた方は皆そう思うだろう。嫌いなものの話はこの程度にしておこう。前述したとおり、私には嫌いなモノがたくさんある。けど、それでいいと思っている。嫌いなものがあるから、好きなものもある。人は比較でしか物を判断することはできないのだ。そして、嫌いなものを嫌いだと思えることは心の負担を軽減できる。今の私は昔の私とは違う。我慢しない。我慢しても何も良いことは無い。もちろん日常生活に支障が出ない程度に我慢しない。だから、一般人は持たないだろう特殊な欲求願望も満たせるだけ満たそうとするし、している。あまり表だって言うことはできないがね。ああ、犯罪は犯していないから安心しる。私にとって犯罪を犯すことも嫌いなことだからだ。というより、私にとって明文化されたルールを破ることは嫌いなことだ。あと、カンニング。レポートを写すことには何の抵抗も無いが、カンニングすることだけは体が受け付けない。自分が他人は異なる特殊な欲求を抱いていても、それを否定する必要は全くない、世の中には同じような人間が絶対他にも居る。それもたくさん居る。それだけで、自分を少し受け入れられるようになる。なんだかんだいってやりたいことはいろいろとやってきた。まだやりたいことはある。だから、私は生きなければならぬのだ。

何が言いたいかと言えば、
何か特定の事について言いたかったのではなく、
何でも良いから、ただ何かを言いたかっただけなんだ。
やりたいからやる。私は何も間違ってはいない。

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