【薄闇色の口紅】

丁度良いところに切り株があった。
彼女は、近くの木から柿の実をひとつ取って、切り株に腰を下ろした。既に日は落ち、辺りは薄暗闇に包まれている。
久しぶりに全力で暗い森を疾走した彼女は少し疲労を感じた。彼女の足は疾い。でも、彼女は自分の足はあまり好きではなかった。青銅で出来た脚と、ロバの脚。彼女の能力を以てすれば自由に姿形を変えられるとはいえ、彼女の本当の姿はそれしか無い。彼女は青銅もロバもあまり好きではなかった。
彼女は先ほど手にした柿を囓った。そして、すぐに投げ捨てた。

「・・・渋い」

彼女はワガママだった。
彼女の主食は人間だ。彼女が美しい女性に姿を変えれば、馬鹿な獲物はいくらでも集まった。気に入らないヤツなら、即座に喰らって殺した。気に入った相手には抱かせてやった。もちろん、その後殺して喰った。彼女は面食いだったのだが、顔良いヤツはなかなか捕まらないのが、悩みの種でもあった。
今日はちょっと勝手が違った。いつものように餌を探しに大きな街の近くまでやってきたのだが、人間の女性に姿を変える前に、一人の男に見つかってしまった。そして、誘われた。まだ、青銅とロバの脚のままだったのに。
彼女は驚き、思わず逃げた。力の限り疾走した。今まで、男を誘惑するのは星の数ほどあれば、向こうから誘われたのは初めてだった。それに好みのタイプだったし。
彼女は首を振って、自分の考えを打ち消した。そんな事は無い。どうでも良い。次にあったら喰らってやろう。

彼女はさっき投げ捨てた渋柿を拾って、また囓った。苦い味は嫌いじゃなかった。でも、甘い柿の方が好きだっただけだ。
自分の唇にそっと触れながら、彼女は口紅を取り出した。昔、誘惑した男から贈られたモノだ。姿を自由に変えられる彼女には必要ないモノだったけど、なぜか捨てずに取っておいた。
薄い紫色の口紅。彼女はそっと唇に闇夜の色を乗せる。
渋柿を再び投げ捨てて、彼女は立ち上がり走り出した。
近くに湖があったのを思い出したからだ。

豹のようなシルエットが薄闇色の森を駆けた。
青銅とロバの脚は彼女のしなやかな肉食獣のような脚力と速度を与える。木々が絡み合った森をスピードを落とすことなく走り抜ける彼女には不思議な美しさと魅力があった。それは普段の変身と魅了の魔力によるものでは無い、別の何か。
彼女の名はエンプーサ。人間を喰らう恐ろしい怪物であり、永遠の少女である。

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